第4話

06.


 こうしている場合では無い。全く噛まれている感じがしないのを良い事に、珠希はその犬っぽい生物を押しのけた。意外にもすんなりそれが離れていき、召喚師の元へ戻る。そして、本来の犬のようにクゥーン、と情けない声を上げた。「何かアイツ、平気そうな顔してるんですよご主人!」、とでも言いたげで何となく可愛らしい。
 そんなご主人はナイフを持ったまま、こちらへ突進してきた。和んでいた空気が一瞬で凍り付く。

「来ないで、来ないでください!まだ死にたくない!」

 慌てて逃げだそうとしたが、起き上がるのに数秒のタイムロスをした。呆気なく召喚師に追い付かれる。すぐに腕を捕まえられ、動きを強制的に止められた。
 手首を掴み、引き寄せた召喚師は珠希の胴体ではなく、手の甲にナイフの刃を押し当てる。
 ――あれ、殺されるって訳ではない?
 さっきの犬の歯が大丈夫だったんだから、ナイフもきっと大丈夫だ、という謎の慢心はすぐに打ち破られた。ぴっ、と鋭い痛みが一瞬だけ走る。見れば、手の甲が一文字に薄く斬り裂かれ、血の玉が出来つつあった。
 くらり、眩暈を覚える。
 転んで膝を擦り剥いた時の方が重傷だったが、ナイフという危険な異物が肌を撫でたという事実が脳に伝達され、上手く息が吸えなくなる。これは多分、動物的な恐怖だ。
 呆気にとられて固まる珠希を置き去りにし、先程置いた金の杯へ召喚師が歩いて行く。

「共に歩みし盟友を……父の名、我等の契約において……」

 祈るように頭を垂れ、召喚師が先程珠希を傷付けたナイフを床に置いた。杯の隣に。ナイフの刃に付着していた鮮血が意志を持ったように床へ滑っていき、赤い染みを一点だけ作る――
 先程、召喚師が犬の様な何かを召喚した時同様、ただし規模は全く違うその床の魔方陣が浮かび上がる。目も開けていられないような、閃光。堪らず目を閉じ、蹲った。温度の無い風が髪を引っかき回す。
 一際強い風が身体を通り抜け、そして今までの暴風が嘘だったかのように唐突に風が止んだ。たっぷり数十秒固まった後、ゆっくりと顔を上げる。

「ヒッ」

 上げなければ良かったとすぐに後悔した。
 今まではいなかったはずの女性が、目と鼻の先に屈んでいたのだ。というか、恐らくは蹲った自分に目線を合わせて屈んでくれたのだろうが。
 猛禽類のような金色の双眸と目が合う。鈍い赤毛は日本では見ない色だ。恐ろしく整った顔にニンマリと笑みを浮かべた彼女だったが、ずっと凝視しているとどこか不安定な気分に陥ってくるので、すぐに目を逸らした。
 ――彼女は誰で、いつここに来たのか。
 当たり前の疑問が脳に浸透するまで僅かに時間を有した。訳の分からない事が起こり過ぎていて、神経が鈍ってきているとしか思えない。

「そんな顔するなって。どうしたの、お姉さんに相談してみ?」

 何を言っているんだコイツは、開きかけた口はしかし、背後でゆらゆらと突っ立っている召喚師と手持ち無沙汰でウロウロしている犬っぽい何かのせいで閉ざされた。
 彼女が誰なのかなど、いっそ後回しで良い。殺人未遂犯というか、傷害事件を引き起こした彼にこれ以上傷を負わされないようにする為にも、まずは誘拐未遂までやらかして危険人物の事を教えなければ。

「あのっ、あの、その人……!刃物を持った危険人物なんです、あなたも早く逃げた方が……!わ、私も、刃物で斬り付けられ――」
「どうどう、落ち着けって。取り敢えず、落ち着いて話をするのに邪魔だから、後ろの人間はあたしが片を付けといてやる。ちょっと待っててくれよ、相棒」
「は?」

 色々不穏な言葉が鼓膜を擽ったが、彼女の行動は迅速だった。立ち上がり、召喚師の方をくるりと振り返るとパンパン、と大きく手を叩く。
 何をしているのか、と思えば召喚師の身体がぐらりと傾いて倒れた。主人が倒れたからか、犬の様な何かが慌てて吠えたてるが、こちらは女性が何かするまでもなく淡い粒子になって消えて行く。

「え、あれ、何で……」
「術者からの魔力供給が無くなったから還ったんだろ。で、状況を整理しようか、相棒。取り敢えず名前は?あ、珠希だっけ?」

 ――名乗る前に名前を把握している奴は危険人物の定理!
 これまで勝手に名前をどこかで聞いて、当然のようにこちらへ呼び掛けて来る者はみんな不審者だった。フリオの時もだ。名乗られる事を想定しない立場だから、誰かが呼んだ名前で呼んでくる感じ。
 彼女に至ってはそれ以前の問題だが、とにかく怪しさだけは満点だ。引き攣った顔でじりじり距離を取っていると、彼女は可笑しそうにくすくすと笑った。

「あたしはコルネリア。見ての通り、グランディアから来た魔族さ。ちょっと事情があって、相棒召喚――ああ、人間はクルト式召喚術って言うんだっけか。で、喚ばれた」
「あっそう……。じゃあそれ、あっちで倒れてる人が喚んだんだと思いますけど」
「いいや?お前名義になってるよ」

 ――知らないんですけどォ!
 架空請求のような悪質さを感じる。というか、こちらはアーティアに永住するつもりなどなく、来られても困る。こっちは帰りたくて仕方ないのに、訳の分からない事に巻き込まないで欲しい。