第1話

10.


 部屋の中に入ってきたフェイロンは壁に刺さった斧の先端を見て目を眇めた。

「お主、本当によく無事であったな」
「く、首……!」
「首?寝違えでもしたのかね」

 そうっと自身の首筋に手を当ててみる。触ってみた感じでは怪我なんかはしていないが、正常な判断が出来ない。

「刃物が……!いや、爪か。これ絶対に怪我してるよ!」
「様子を見る限り、大した怪我ではなさそうだが――まあ、治してやらなくもない。どれどれ、見せてみよ」

 無理矢理手を引き剥がされた。そんなフェイロンはしかし、首を傾げている。

「怪我なぞしておらぬが」

「フェイロン!珠希は!?」

 落ち着いた物腰なのがデフォルトのイーヴァ。彼女の焦った声に対し、フェイロンは呑気に応じた。

「無事のようだぞ。ただ少し――こう、頭の方が無事ではないようだが」
「怪我をしているの?」

 イーヴァが部屋に入って来た。その後ろにはダリルとロイもいる。そういえばダリルの今日の服装、赤い染め物が素敵。まるで血みたい――いや、ケチャップ、きっとそう。

「ごめんね、珠希。もっと早く村を出れば良かった」
「あ、ああいや……まさか二足歩行の狼が襲い掛かって来るなんて、そうそう予想は出来ないから仕方無いよ……」
「ううん。人狼は人間の肉を好む種族。村が乗っ取られている事にもっと早く気付けばよかった」

 ――いや無理だろ。完全にレアケースだよこれ!
 泊まった村が人狼とかいう謎の生命体に乗っ取られていました、まで予想出来たら思考回路が確実に人間のそれじゃない。推理小説で視点主が犯人だったくらいあり得ない。
 そういえばさぁ、とロイが少し憤慨したようにフェイロンへと言葉を投げ掛ける。

「何でお前、住人が人間じゃないって気付かなかったんだよ。結構前に『人と人外を見分けるのなぞ簡単な事よ』ってドヤ顔で言ってただろ!」
「ううむ、人狼はなぁ……。俺は魔力量で人とそれ以外を判別しているが、それが人間の性能と変わらぬのであれば気付かん」
「あっ、そういう統計的なアレで判断してたのか!?馬鹿じゃん、統計なんて幾らでも変わるって故郷の村長が言ってたぞ!」
「やかましいわ。というか、人狼なんて人里に1匹や2匹紛れ込んでいようが大した害にはならん。村ぐるみで襲い掛かって来るとは思わんだろう」

 どういう事、とイーヴァに現状を尋ねてみる。皮肉げに肩を竦めた彼女淡々と語った。

「どうも、村が人狼に乗っ取られているみたい。人狼はこう……仲間意識が強すぎるグランディアの種族で、多い方の意見に寄るの。だから人間が多い場所では人を食べない個体が多いし、共存して暮らしているのがほとんど」
「そういう感じなんだね……」
「人狼はとても力が強いから、むしろ村に1匹2匹いてくれた方が助かるって言う人も多いかな。でもここ、宿のロビーも素通りして個室に乗り込んで来るあたり、人間は全滅していると見て良いと思う。肉食嗜好がかなり強いみたいだし」
「人狼の数の方が多いから、私達が襲われたって事?」
「うん。見た目で判断出来ないから、何とも言えないけれど」
「狼マスクみたいな格好だったよ、さっきの奴」
「化けの皮が剥がれただけ。基本は普通の村人みたいに見えているよ」

 そういう事情があるのか。夢見心地な気分になってきたので、ほとんど小説でも読んでいるような薄ボンヤリとした理解しかできなかったが。

「なぁ、これからどうする?もう二度寝は流石にマズイ気がするんだけど」

 ロイの問いに対し、ダリルが珍しく断定的な口調で答えた。

「今のうちに村を出る一択だな。言う程人口は多くない村だけど、その人口がそのまま全て人狼だったら、俺達はともかくイーヴァちゃんと珠希ちゃんは乗り切れないかも」
「では他の人狼が集まってくる前に、カモミールからは逃げ出すという事でよいな?」
「それがいいね」

 ***

 手早く荷物をまとめ、宿の外へ出たは良いが、当然都合良く話が進むなんて事は全くなかった。
 爛々と輝く瞳を湛えた――『それ』は確かに見た目だけは人間だ。否、人間なのかもしれない。見ただけでは判断が付かない。
 5人、或いは言い方を変えるのならば5匹。
 宿の入り口で待ち構えていた村人達は無言でこちらを見ている。その視線は一様に捕食者のそれだ。

「応戦するか!腕が鳴るなぁ」
「えぇ……そんな事して、相手が人だったらどうするの?ねぇ、ダリルさん」

 ロイに言っても「え?」、何て無邪気に返されそうだったので年長者ダリルに同意を求めた。しかし、彼はいつも通りの気弱な笑みからは想像も付かない言葉を吐き出す。

「大丈夫大丈夫。向かって来るのなら、人間も人狼も関係無くみんな敵だからね」
「戦闘民族かよ……!」

 やんわりとイーヴァに腕を引かれる。
 彼女は少しだけ困ったような顔をしていた。

「珠希、あれは多分人狼だよ。ただでは帰してくれないだろうから、下がっておこう」
「え、大丈夫かな。人数はあっちの方が多いし、倉庫かどこからか、武器になりそうなものを持って来た方が良いかな?まあ、それを使う度胸があるのかは別として……」
「変な事はしない方が良いと思うよ」
「そ、そっか……イーヴァは?ここにいるの?私のお守りなんてしなくてもいいんだよ?」

 部屋に侵入してきたような気性の人狼なら、やる気満々な面々を倒した後で自分を見逃してくれるはずもない。イーヴァが加わる事で多少でも生存率を上げる事が出来るのであれば、こちらの面倒は見なくていいからロイ達の方に手を貸してやって欲しいものだ。
 意に反し、イーヴァは緩く首を横に振った。

「私、戦う魔法を持っていないの。魔力が少ないから、人狼を倒すような魔法なんてとても……」
「そうなの?」
「そう。精々、薪に火を着けるくらいしか」

 ――魔法って聞いたから派手なものを思い浮かべたが、日常のささやかな便利技能として活用しているらしい。スプーン、いや斧の柄をへし折る程度しか出来ない自分の性能に比べたら魔法の方が便利そうだ。