09.
***
事が起きたのは深夜。
2時くらいの時間だろうか。珠希はドアを叩く――にしては乱暴な音に意識を浮上させた。それまで爆睡していたので、嫌な倦怠感が全身を支配している。
「なんなの……」
上半身を起こした。と、同時にドアが一際大きな音を立てて外れる。
流石に眠気が吹っ飛び慌ててベッドから降りた。ドアがお亡くなりになられたので、当然のように部屋へ入ってくるモコモコの毛が濃い足――
「いや、強盗にしちゃ自己主張激し過ぎるでしょ!」
思わず叫んだ。
現れたのはウルフマスクを被った頭部。顔は全く見えないし、どことなく獣臭い。足もそうだが、両手もしっかり毛皮武装されていてまさに狼人間とでも言える出で立ちだ。今日はハロウィンじゃないし、ましてやエイプリルフールでも無いんだぞ。
そのウルフマスクは手に小振りの斧を持っている。それを手で弄びながら、それは口を開いた。
「人間の肉は……お前くらいの歳の女が一番美味いんだよなあ。見た所、筋張ってなさそうだし、かといって筋肉が付いてるわけでもなさそうだし。明日の晩は仲間総出でパーティが開けるぜ」
「えっ……た、食べる……?」
――何かの冗談じゃなくて?
という疑問を口にする事は出来なかった。ウルフマスクがべろりと舌なめずりしたのを見て、それがマスクなんかじゃない事に気付いてしまったからだ。どういう原理なのかは分からないが、少なくとも生態系は人間じゃなくて狼寄りのような気がしてならない。
1歩、狼の化け物が足を踏み出した。釣られて珠希もまた1歩下がるが、すぐに背が壁にぶつかる。勿論、出入り口は狼が入って来た1カ所のみだ。窓から飛び降りる事を考えたが、ここは2階。かなり上手に飛び降りないと怪我では済まない――
「頭部は珍味で好きな奴しか食わねぇが、潰したら文句を言われそうだ。首から上と、下に分けてしまおう。内臓は傷付けたくないから、あまり暴れない方が良いぞ」
牛や豚のように人間を解体しようとしているのがよく分かる台詞だ。
一歩、再び狼が近付いて来る。斧を持ったその手は凶悪な爪が輝いているが、使うのはその斧だけらしい。ゆっくりとそれを振り上げる。
大きな声を上げたら、隣にいるだろう誰かが来てくれるかもしれない。
そう思って口を開いたが、出るのは情けない呼吸音だけだ。被害者の心理、とでも言うのか、とにかく大きな動きが出来ない。身体が凍り付いたように動かない。
視界の端によく研がれた斧の刃が写る。
金属部は無理だとしても、柄の部分――つまり、木製の部分ならスプーン同様にねじ曲げて、へし折る事は出来ないだろうか。
「お願いします、曲がれ曲がれ曲がれ曲がれ――」
「あ?この部屋に曲がり角は無いだろ」
バキッ、と思ったより破壊的な音がした、と思えば中程から折れた斧の刃が狼の背後の壁に突き刺さっていた。
その光景を少しばかり驚いた顔で見ていた狼は盛大に舌打ちし、吐き捨てるように呟く。
「んだよ、魔法使いかよ。ビビって固まってんのかと思ったら術式編んでやがったな――」
何か攻撃的な言葉が続くかと思われたが、そこで狼の言葉は隣の部屋から聞こえる騒音によって掻き消された。物が引っ繰り返るような音と――怒号?何か叫ぶ声。聞き覚えがあるような。
「ロイくん……?」
「あークソ、何か隣も失敗してる臭いな。手が汚れるから好きじゃねぇってのに。お前、刃物の方がマシだったって後悔するからな」
柄の残りを部屋の外へ投げ捨てた狼の姿がブレた。
あまりにも俊敏な動きに全くついて行けず、中途半端に口を開けて何事か声を発そうとした状態のまま、右端から鈍色に輝く鋭い刃物のような――狼の爪が迫ってくるのを茫然と見送る。
鈍い衝撃。無理矢理例えるのなら、ロッカーに入った状態でロッカーの上から殴られたような感覚か。自身には全く肉体的ダメージはないものの、衝撃で床に倒れ込んだ。
どうしてそうなったのか自分でも分からない。ただし、狼の方は概ねの事情を珠希以上に理解したらしい。
苛立ちをありありと滲ませた、肉食獣のような呻り声を上げたそいつは部屋の外へ一足で飛び出した。逃げようとしている様子では無く――まるで、助走でも付けるかのような。
あんな強靱そうな狼に殴られたら、今度こそロッカーごと中身が粉々になるのではないだろうか。
嫌な未来予想を経て、何とかならないかと周囲を見回す。
――が、当然ながらこんな危機感に襲われた事など今まで一度たりとも無い女子高生はオロオロするばかりで良い案など思いつかない。そもそも、ここで咄嗟に適切な処置を取れるのであれば、車に轢かれたりはしなかっただろう。
そうこうしているうちに、狼がグッと姿勢を低くする。猫が獲物を狩る時に見せる、ハンティングポーズに通じるものがあるだろうか。
狼が短く息を吐く。
――来る。
身構える程度の事しか出来なかったが、しかし、狼の方は恐らく身構えるという発想すら無かった事だろう。
狼の両足がしなやかに伸びると思われたのだが、その行動は横合いから飛び出して来た人物によって強制的にキャンセルされた。
華麗な跳び蹴り。
廊下から走って来たであろうその人は、今まさに獲物へ飛び掛かろうとしていた狼の横っ腹へ正確な蹴りを入れた。凄まじく痛そうな音がここまで届いたのだから、その威力たるや実に恐ろしいものである。
フェードアウトしていった狼が廊下を転がり、壁にぶつかる痛々しい音までがセット。強烈な蹴りを繰り出した本人は、狼を蹴り転がした反動を利用して華麗に着地している。
「無事か?」
転がって行ったそれを確認した跳び蹴りの人――フェイロンが部屋を覗き込んでそう尋ねた。色々と衝撃が強すぎる光景を目の当たりにした珠希は首振り人形のように頷く。
――今になって確かめるのが恐いが、狼の爪が直撃したはずの首はちゃんと胴体と繋がっているのだろうか。怪我をした時は痛みを忘れる、とか聞くし。確認するのが本当に恐い。