第11話

09.


 ただし、その光景に呆然としたのは珠希も同じだ。急に足下から崩れ落ちた有角族の長を唖然と見つめる。
 しかしそれは一瞬の出来事だった。リンレイの力で張り巡らされていた結界が消え去り、四苦八苦していたであろうフェイロン達と対面する。

「これは……何事だ?」

 蹲っているリンレイを視界の端に、用心深く、迅速に歩み寄ってきたフェイロンは小首を傾げていた。このままではいけないとは思ったのか、やんわりと腕を引かれて賢者から引き離される。
 屈み込んだ彼女は液体の混じった嫌な咳をした。身体の内部を損傷している人間がするような咳に、思わず後退る。

「あ」
「どうした?」

 ポケットの中にしまい込んでいた例の物の存在を思い出して声を上げたら、フェイロンがピリピリした調子で理由を問うてきた。相当に苛立っているので、やや恐怖を感じながらも問いの答えを口にする。

「い、いや……イーヴァに貰ったあのビー玉みたいなやつ、割れちゃってるなって」
「……ああ、錬金術で作ったという例の……。そうか、それの効能であったか」

 というか、と怪我のダメージから復帰したらしいコルネリアが皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「上位種の矜持が裏目に出たな。珠希を容赦無く挽き潰すつもりで魔法編んでおけば、こんなガラス玉如きに魔法を跳ね返される事も無かっただろうに」
「出過ぎた言は止せ。貴様よりずっと齢を重ねられている方だ」
「はいはい、悪かったなお貴族サマ」

 いつの間にか面を装着していたバイロンがすっと前に出る。彼は、折角装着したその面に片手を掛けながら、メモを見せてきた。他でもない、珠希自身に。

『リンレイの処遇はどうする。フェイロンはアテにならない、であれば私が始末しよう』
「し、しまっ……!? い、いやいいですって、そこまでしなくても!」
『これで退くとは思えないが。今後の為にも、この女は生かしておく訳には行かない』

 最初から一貫していたバイロンの意見は、現状でもなお一貫していた。とにかく「カルマ・アイリス」に危害を加えるものを取り除きたい、その一心だけは尊敬に値する。ただ――
 ちら、と珠希はフェイロンを見やった。この場において、彼だけはリンレイとの縁がある。間違いなく知り合い、否、もっと親密な仲だろう。

 瞬間、ゆらりとリンレイが立ち上がった。驚いたようにフェイロンが跳び退り、バイロンが面を外す。コルネリアだけが薄い笑みを浮かべて特に警戒心を露わにしてはいなかった。
 吐き出した血液が紅を差したように、唇を赤く染めている。それに戦慄しながらも、ぞっとするような鋭い視線を真っ向から受け止めた。というか、目が逸らせなかった。

「……このような決着のしかたをするとは思わなかった」
「そ、それはこっちも同じですけど」
「よい、そなたが一枚上手であった、それだけの話よ。煮るなり焼くなり好きにして構わぬ、それが敗者の運命よな」

 ――決めにくい事を決めさせようとしてくるなあ……。
 苦手だ、こういった類いのお話は。正直、命さえ狙われなければ彼女が生きていようと別に構わない。車との事故は偶然だし、殺人未遂で終わっているのならそれ以上の制裁をしたいとは思えなかった。
 ただ――この先も、何かにかこつけて襲いかかって来なければ、それで。

「リンレイ様が……」
「……?」
「リンレイ様が、口約束を確実に守ってくれると言うのでしたら、これ以上は特に何かしたいとは……思いません。ただ、まだ私の事を殺そうだとか、危害を加えるつもりなら、考えますけど」

 考えるだなんて嘘っぱちだ。本当はこんな状況になった時にどうすれば良いのかなど分かる訳もない。
 歯切れの悪い物言いにバイロンどころか、フェイロンですら眉間に皺を寄せている。

 一方で謎の口約束を持ち出されたリンレイは押し殺したような笑い声を上げた。しかもその引き攣った笑いが怪我に触ったのか、再び嫌な噎せ方をする。

「そなた、前々から思っていたがなかなかに豪胆な気質であるな」
「ど、どうするんですか? 私の事も追わない、好き勝手もしない……守っていただけますか?」
「よいぞ。守ろうではないか、そなたの優しさと思慮に免じて。ただし、妾からも条件がある」

 条件を持ち出せる立場か? とも思ったが、何も聞かずに突っぱねるのはつまらないので、一先ず聞く姿勢を取る。

「そなた――珠希の事は、フェイロンが見ておく事」
「俺ですか?」
「妾もそのカルマを野放しにした折、どうなるかなどまだ分からぬ。余所の種族に面倒を見させるつもりなどない。有角族である、そなたが面倒を見よ。よいな?」
「承知致しました。まあ、珠希は元より身寄りも無いので、最初からそのつもりではありました。構いませんよ」

 戦闘が終息したのを感じ取り、イーヴァが顔を出した。一部始終を聞いていたのか、会話への横槍は無し。そんな彼女に対し、フェイロンが手短に今までの会話を話して聞かせた。

「――そう。そうなったんだ。私もそれで貴方が納得するのであれば、良いと思う。どのみち珠希を一人きりにする事は出来ない。帰る場所が無いのだから。それとは別に聞く事がある。いい?」
「錬金術師の娘か。なんぞ、妾に聞きたい事とは?」
「珠希とカルマを分離させる事は出来ないの? このままでは、バイロンが納得しないと思うのだけれど」
「前にも言ったかもしれぬが、妾はその方法を知り得ぬ。カルマと珠希を引き離したいと言うのであればそなた等で調べておくれ」

 それだけ聞くと、バイロンはあっさりと踵を返した。その背に声を掛ける。

「えっ、どこに行くんですか?」
「カルマと人間を分離させる方法を捜しに。世話になったな、珠希」

 珍しく言葉で以てそう返した彼は、あっさりと歩き去って行った。あまりにも早急な態度に言葉を失う。補足するようにイーヴァがぽつりと呟いた。

「多分、バイロンとはまた会う事になると思う。珠希――ではなく、アイリスに会いに」
「凄く難しい話になって来たな……」

 やや苦しそうに息を吐き出したリンレイ。彼女に対し、フェイロンが訊ねた。

「よろしければ、塔まで運びますよ」
「よい。敗者に掛ける情けなど不要であるぞ、フェイロン。暫くはそなた等の顔も見たくない、負けた以上、そなた等の要求には従うが早々にギレットより立ち去って貰おう」

 そう言うと重々しい挙動でリンレイはゆっくりと自身の住居である塔を見上げる。彼女の背後では、ダリル達と戦闘を繰り広げていた、かなり若そうな有角族の青年達がビクビクと周囲を見回しているのが見て取れた。

「それで、珠希」

 イーヴァが穏やかに訊ねてくる。

「これから貴方はどうするの? 元いた場所に帰るのは無理だと言うし、私達と旅を続ける?」
「うーん、旅は……続ける。でもその前に、カモミール村に寄って欲しいな」
「どうして?」
「や、あそこって空き家が一杯あるじゃん? 買収しておこうと思って……。マイホームなんてまともに買える生活は送らない予定だしね」

 少しだけ照れながらそう言うと、イーヴァは珍しく酷く穏やかな笑みを浮かべた。