第11話

07.


 急展開に思考が一瞬止まる。そして、この場における一瞬とはリンレイにとって長すぎる程に長い時間だった。
 最早無言。よく見ると人間のそれより鋭い爪が生えた左手が首元へと伸びて来る。危機的状況に陥ると人間の視野が異様に広まるとはよく言ったもので、慌てて踵を返して来るバイロンの姿が視界の端に映った。
 そしてどうにか命の危険を遠ざけようと、今までの人生で一度も体験した事の無いような速度で思考が駆け巡る、駆け巡る。結果として分かった事は、目の前に居るリンレイという脅威のアクションが成立する前にバイロンであったりフェイロンであったりが助けに入れる確率はかなり低いという事だけだ。

 ガンッ、という鈍い音で我に返る。
 見ればリンレイの左手は結界に阻まれ、寸での所で止まっていた。形の良い彼女の顔が僅かに歪む。ここで初めて、彼女も彼女でそれなりに焦っている事を悟った。

「そう簡単には行かぬか」

 言いながらリンレイはその右手に新しい術式を4分の3程完成させている。こうなる事は予想の範囲内だった模様。
 顔を引き攣らせた珠希は、今度こそ明確に持った能力を使って、リンレイから離れようと右手を突き出した。動作としては近すぎる人間を押し返すようなイメージ。

「は!?」

 フリオに使った時とは違う。レンガの壁でも押しているような感触に目を剥いた。何だこの押し心地。
 やや引き攣った顔で衝撃に備えていたリンレイもまた、首を傾げる。しかし、結論に至るのは超能力使用者である珠希よりもずっと早い。

「躊躇いか。そなた等はそういうところがある」
「…………」

 人を傷付けてはいけません。それは犯罪です。また、人間の倫理的観点から見ても、他人を容易に傷付ける事が出来る人は人間性に欠けています。
 ざっくり要約するとそういった類いの事を小さな頃からずっと教え込まれてきた。成る程それは素晴らしい道徳観念だ。ただし、法律を筆頭にある程度の秩序が約束された場所であれば。
 何にせよ、染みついた生活様式と言うのはなかなかに変え難いものだ。それこそ数週間、数ヶ月そこらで変えられるものではない。

 リンレイが完成した術式を、地面に向かって放った。上がる火の手、幸い結界のおかげか息のし辛さや熱さなどは感じない。

「何を――」
「コルネリアは離脱するであろうが、フェイロンとあの悪魔の相手などやっている暇は無い。その結界を破るのにはそれなりの時間が掛かりそうだ」

 手っ取り早く隔離されたようだ。上がった火の手は完全に自分とリンレイを別世界の住人として隔離してしまっている。攻撃では無く、これこそが結界の類いなのかもしれない。
 なお、完成した魔法を発動させた後。迷い無くリンレイは新しい術式を紡ぎ始めている。これが完成する前に早くどうにか逃げ出さなくては。

 今度こそ躊躇いは無し。持っている能力を出来うる限り最大限に放つ――

「へあっ!?」

 行動心理を読まれているのだろう。
 モーションが大きすぎるせいだろうか、一点集中でリンレイに攻撃を仕掛けたがあっさりと回避された。虚しく地面がえぐれているのがもの悲しい。
 フェイロン以上に俊敏な動きに思考が追い付かない。それと同時に、こんな大ぶりではリンレイという小さな的に攻撃を当てる事が出来ないのではないだろうかという事実に気付く。

 どうすればいいのか、そんな事を思考している暇は当然ながら与えられなかった。さっきよりずっと短いスパンでリンレイが魔法を放つ。今度もまた燃え広がる炎の魔法を。

「そなたの結界は単発且つ高威力の魔法に強い。先程検証したところによるとな。そして、更に修復速度も抜群。であればどうするか。じりじりと負荷をかけ続け、一度消えた所を更に叩くのがセオリーであろうな」
「えっ、あ……」
「そなたではなく、結界を燃やす設定をして魔法を放った。安心せよ。火炙りにはならぬ」

 リンレイの言う通り、結界は軋んだ音を立て始めている。気分は丸焼きにされる豚。結界内の気温が徐々に上昇しているのが分かる。火炙りにはならずとも、このままでは蒸し焼きだ。
 逃げ出そうと周囲を見回しても、この狭いリンレイが作り出した空間の中で逃げ場など皆無。詰んだのでは。

 びしり、という何かが致命的に壊れかけているような音を聞く。同時に、今までバイロンが喋っている時にしかその存在を主張していなかった不可視の結界。それに大きな、今まで一度たりとも見た事の無いヒビが入っているのが見て取れた。
 一度入ったヒビは卵が今まさに孵ろうとしているかのように、あらゆる場所に新しいヒビを入れ、広げ、どんどん脆くなっていく。試しに結界を覆っている炎をかき消してみようとしたが、当然上手くは行かなかった。実態の無い物を払うイメージが湧かなかったからだろう。