06.
何だかよく分からないが、逃げるのが一番である気がする。とにかく、フェイロンは一緒に付いてくるという事で決着しているようだし、逃走をそろそろ提案したい。これ以上は逃げる機会を見失いそうだ。
もう一度だけ、珠希はランドルをちらと見る。彼は彼でリンレイの指示待ちをしているようで、積極的に何かするつもりには見えない。そもそも、フェイロンにはこの移動用術式とやらを使用していいのか訊くつもりだった。
「フェイロン……!!」
「うん? どうした。俺の行動に感銘でも受けてくれたのかな?」
「いや、それは後。あのさ、これ、使えると思う……?」
やや不満そうな顔をしたフェイロンはしかし、文句らしい文句を言う事もなく指と指の間に挟んだ術式を一瞥した。眉間に寄っていた皺が余計に深くなる瞬間を見る。
ややあって、フェイロンは珠希の問いに端的で簡素な回答にて応じた。
「使える。どこへ移動するのかは知らぬが、ここ以外の場所へ行く事は可能だ。出来れば使って、ここを切り抜けてしまいたいが……。それは、どこの誰に貰った物なのかを訊ねておこうか」
そう言いつつも、彼の棘のある視線はランドルへ手向けられている。保護者の如く、隣に立っていたバイロンにちょいちょいと肩を突かれた。今思う事ではないが、この人の行動って割と可愛いところがある。
「どうしましたか……?」
『私が確認しよう。これは、本来ならばどこへ飛ぶものだ?』
それは大声で言っていいのだろうか。とはいえ、ランドルから貰った術式なので、本人には何の術式なのか筒抜け状態なのだが。しかし、判断に窮した珠希は結局囁くような小声でバイロンの問いに答えた。
「あの、カモミール村に飛ぶらしいです」
『承知した』
しかし、こちらの動きを黙って見ているリンレイではない。目を眇めたお偉いさんは、低い声音を紡いだ。美女からの思わぬ重低音に、身体がびくりと震える。啖呵切っておいて何だが、この人本当に恐い。
「移動術式か。誰がそんなものを渡したのか、今は訊かぬが……。そのようなものを、使わせるとでも?」
事の成り行きを見守っていたダリルが音もなく動いた。のへっとした顔が、仕事モードに切り替わる瞬間を見る。
行くと決めたダリルの動きは迅速だった。
既にその手に持っていた大剣を、重心移動と遠心力を巧みに使いながらリンレイへと詰め寄る。しかし、肉薄する彼と彼女の間に挟まるようにして術式が展開される。
これは、コルネリア達が使うそれではない。
もっと大きくて、まるでゲートのようだ。案の定、広がった金糸は黒い穴をぽっかりと開けた。まるで底の見えないそれから、太い腕が伸びてくる。以前にも見たそれは、身体の大きさからしてゲートを通り抜けて全身がこちら側へ出てくる事はきっとないだろう。
やや驚いた顔をしたダリルが、それを横っ跳びに回避する。伸びてきた腕は虚しく地面を掻いたが、まるで巨大生物の引っ掻き傷のようなものが大地に刻まれる結果となった。
これはどうすべきなのか、真っ白な頭で考えていると突っ立っていたコルネリアが動く。基本的に助け合いの精神を持たない彼女だが、珍しくダリルの援護へ入ったのだ。明日は雹が降るかもしれない。
『調べたぞ、これはカモミールに飛ぶ』
肩を叩かれてそちらを見れば、術式を手に取って解析していたバイロンがそういった旨の文言が書かれたメモを差し出してきた。素早くそれに目を落とした珠希は、久方ぶりに腹からの声を出す。
「みんな! 逃げる方法が見つかったから、とりあえず退避!!」
使った事がない術式の為、どういう風に起動されるのか分からない。分からないが、不意に目が合ったランドルが、リンレイの背後で地面を指さしたのを見て視線を落とす。成る程、起動した術式は足下に展開されていた。
そして、この丸い範囲内にいる存在を移動させるのだと容易に想像がつく。つくし、散っていた仲間達が対峙する面々を警戒しつつも、エレベーターよろしく術式に乗って来たのでこういう使い方なのだと合点がいった。
何事か口を開きかけたリンレイはしかし、一先ず今回は見送る事を決めたらしい。腕を組み、その場から動かない姿勢を見せた彼女はあらゆる感情を綯い交ぜにしたような複雑な表情を浮かべていた。
視界がホワイトアウトし、エレベーターに乗っている時のような浮遊感が全身を襲う。瞬きの刹那には、見慣れたカモミール村の風景が広っていた。