第10話

04.


 それを考える余裕は無かった。
 イーヴァにしては珍しい、初めから相手を警戒して掛かっているような硬い声音が耳朶を打ったからだ。

「貴方の要求は矛盾している。とても珠希一人を連れて行く為の装備ではないし、何より貴方のような存在が珠希をわざわざ連れに来る道理は無い。涼やかな弁に騙されてあげる事は……ちょっと出来ない」
「た、確かに! 私なんかをこんな大勢で迎えに来る事無いもんね、お偉いさんが!」

 顔を引き攣らせたイーヴァに後ろへ下がれと促される。その様子を見ていたフェイロンの顔色は――悪い。
 聡明な彼は最初の段階から何かが可笑しい、矛盾している事に恐らく気付いていたはずだ。しかし、上下関係、縦社会の問題でそれを突く事が赦されなかったのだろう。

 最終通達。
 言い聞かせるように、ここで『騙される』スタンスを掲げない限りは対立する事を強調するかのように、ゆっくりとリンレイは言葉を紡ぐ。それは念押しであり、確認だ。

「もう一度だけ言おうぞ。珠希を、こちらへ。妾はあの下賤な魔族共とも、裏で随分と暗躍しておった赤い魔族とも違う。人道的な保護を約束しよう」

 そう言ったリンレイの目は、最早笑っていなかった。
 真剣。この最終通達を突っぱねれば実力行使も辞さない、そういった強い意志を感じさせる。

 視線が珠希へと集まった。それは紛れもなく、この大事な選択を自分に委ねるという無言の圧である。
 恐らく、ここでリンレイの要求を呑む事が一番の平和な方法だろう。
 ただし――どうしても、確認、及びハッキリとさせなければならない事がある。居候の身で何を言ってるんだと思うがここだけは絶対に譲れない。

 震える声を押さえ付け、イエスかノーの返事では無く、問いを投げ掛けた。不明瞭だった事柄は、リンレイの態度によって全てが肯定されている。八代珠希をここへ喚んだのは、紛れなく彼女だ。

「――あの、一つだけ。どうして、私だったんですか?」

 問いの意図を計りかねているように、対峙する彼女は眼を細めた。それは実に迫力のある動作だったが、不思議と怯みはしない。
 ややあって、彼女は言葉を選ぶかのように口を開いた。

「妾にそれを選ぶ権限は無い。ただ、近く肉体と魂が分離した者が無作為に選ばれたに過ぎぬ。……満足かな?」
「……ええ、いえ。私、やっぱりあなたとは行けないなって。そう思いました。何だか、根本的な部分が相容れないんだと思います」
「何?」

 一歩、後退る。
 彼女は確かに偉大な人物なのだろう。千年を生きた、有角族の代表。自分のような20年すら生きていない存在と比べれば、確かに素晴らしい人物なのかもしれない。

 人間に羽虫の気持ちは分からない、絶対に。
 彼女にとって自分という存在は羽虫のようなそれと同じなのだろう。無作為で選ばれ、『肉体と魂が分離した』即ち死んでいる存在を喚び出して弄ぶ。
 毎日毎日不安で、どう過ごしていいかも分からず、家に帰る事が出来るという希望をチラつかせておきながらこの仕打ちだ。例えリンレイその人にどんな大義名分があったとしても、何かの犠牲、何かの生贄になった私は彼女を許容出来ない気がした。

 眉根を寄せるその美しくも無邪気な顔に答えを突き付ける。最終通達を。

「私、何があったってあなたに着いていったりしません。私はあなたのモルモットじゃない」
「言い方が勘に障ったのであれば謝ろう」
「心にも無い事を言わないで下さい」

 あの時、自分と最初に出会ったのがリンレイであったのならばきっと彼女の思惑通りに事は運んだのだろう。彼女のゴールがどこであるのかは知らないが、きっとホイホイ着いていっていたはずだ。
 しかし、真相を知った今、誰を巻き込んだとしても彼女に屈する訳にはいかない。これはきっとそう、ささやかなプライドなのだと思う。

 更に一歩後退りながら、ポケットに手を突っ込む。逃げるが勝ちだ。ランドルに貰った移動用の術式で離脱してしまおう。

 ただし、ここで意外な伏兵が隣に並んだ。
 ――バイロン。何故か最初から仲間意識を持っていてくれたらしい彼はリンレイを迎え撃つ気満々である。いや逃げるんだけど。

 急に現れたバイロンに対し、リンレイは鼻を鳴らした。

「珠希に余計な事を吹き込んだのはそなただな。薄汚い、魔女の生みの親め。全ての元凶に最も近しいものが、よくもおめおめと姿を見せられたものよな」

 リンレイと話すつもりは無いらしい。
 罵られたバイロンは首を横に振っただけで、反論らしい反論はしなかった。我に返ったように、イーヴァがよく通る声で言う。

「事情は整理出来ていないけれど、珠希がそう言うのであれば。悪いけれど」
「ではランドル、手を貸して貰おうか。これはそなたの不手際でもある」

 不穏な言葉。
 やや後方でずっと事を静観していたランドルは、組んでいた腕を解く。そして、一言だけで応じた。

「了解致しました」