第4話

05.


 大きな両開きの扉の脇に付いた呼び鈴を遠慮がちに鳴らす。囁くように小さな音が周囲に吸い込まれて消えた。恐らく洋館の中まで客が来た事は伝わらなかっただろう。
 イザークさんに呼び鈴を引ったくられる。そのまま彼は遠慮も容赦も無く呼び鈴を強く鳴らした。結構な音が周囲に響き渡るものの、洋館内からのアクションは無い。本当に人が住んでいないのかもしれなかった。

「――入ってみようか」

 そう呟くように言ったのは意外な事にイザークさんの方だった。彼は眉間に皺を寄せている。

「てっきり帰るって言うと思ったのに……」
「そう言って欲しいなら訂正しようか?」
「や、いいです。何で中に入ろうと思ったわけ?さっきまで帰りたいって言ってなかった?」
「別に帰りたいとは言ってないでしょ。ただ、人が倒れてたらマズイんじゃないかと思っただけ。こんな所、誰か通り掛かる事も無いだろうし」
「あ、あー!確かに」
「そもそも、人が住んでなかったら依頼書そのものが届かないはずなんだから」

 依頼書の件は流されたものと思っていたが、彼にも思う所があったらしい。
 ゆっくりとイザークさんがドアを開く。鍵は掛かっていなかったようで、扉はあっさりと開いた。何故か音を立てないように――まるでコソ泥か何かのように、忍び足で洋館の中へ踏み入る。

「うわぁ……玄関からこれって」

 そこはまさに手入れのされていない廃墟のそれだった。部屋の隅に張られた蜘蛛の巣、埃を被った階段の手摺りや不気味な絵画。どことなく高級嗜好の装飾品はしかし、年月の経過によって完全に劣化しているのが見て取れる。
 ――引き返したい、今すぐにでも。
 そう思ったが特に思う所も無いらしいイザークさんがあっさりと玄関を越えて中へと入って行ってしまったので、仕方無く後を追う。

「イザークさん――」
「人の気配がする。手入れはされていないけど、誰かいるのかもしれない」
「ええ?本当に?私だったらこんな所、30分いるだけで咳とクシャミが止まらなくなりそうだけどなあ」
「僕だって同じだよ。だけど、絶対に何かいると思うんだよね。イタズラならその場で謝らせないと気が済まないな」
「随分と手の込んだイタズラだね……」

 部屋数はたくさんあったものの、何の基準で選んだのか、イザークさんがその中の一つのドアを開けた。開けて、そのまま一瞬硬直する。
 横合いから部屋の中を覗き込んで、ようやくその理由に気付いた。
 ――部屋の中心に、人がいる。
 後ろ姿なのでよく分からないが、髪の長い、変わった模様の赤いワンピースを着た女だ。服装からして、少女なのかもしれないがとにかく背後なので判別が付かない。

「――、―――。―――」

 ほとんど聞き取れないが、女は何事かをぶつぶつと呟いていた。
 足踏みしているイザークさんを追い抜かし、先に部屋へ入る。小さな制止の声が背後で聞こえたが、『正体不明の不気味な女』を『洋館の住人の女性』へ変える為には会話が必須だ。とにかく得体の知れないものを放置する事は、生物的本能の観点から無理。

「あのー……どうか、されましたか?」
「…………」

 ピタリ、とぶつぶつ呟いていた声が止んだ。一瞬の静寂。
 ややあって女性が振り返る。彼女の髪は非常に長く、振り返っても髪に隠れて顔がはっきりと見えなかった。

「具合でも悪いんですか?あの、私達依頼で来たんですけど、病院までお送りしますよ?」
「右手と左手は仲良し?」
「え?」

 唐突に明瞭な声でそう聞かれた。あまりにも唐突だった上、何を言っているのか理解出来ず、反射的に問い返す。女はまた口を開いた。

「ここは3丁目の四つ角?」
「え……いや、違うと思いますけど。というか、室内――」
「赤いちょうは綺麗?あなたに必要なもの?」
「……あの」

 足が竦む。訳が分からないし、話に脈絡が無い。全く会話が成立していないのを感じる。何か恐怖のようなものを覚えて身体が硬直してしまう――
 乱暴に襟首を掴まれた。悲鳴を上げる暇も無く凄まじい力で引き摺られ、気付けば部屋の外に立っている。

「ちょっと。何ボンヤリしてるのさ、彼女、絶対におかしいでしょ」
「に、逃げよう!イザークさん、手を!」
「まあ、それが賢明だね」

 半ば引っ掴むようにしてイザークさんの手を取り、ギルド裏をイメージする。こんな所からは一刻も早く脱出しなければ。先程の赤いワンピースを着た彼女も何をしてくるか分かったものではない――

「……あれ?」
「何やってんの。失敗したわけ?もっと落ち着いてやりなよ、本当に鈍臭いなあ」
「いや、何か――ギフトが、発動しない?」
「ハァ?そんなわけないでしょ。君の不手際なんじゃないの?」
「本当だって!イザークさんも何か試してみてよ!!」

 舌打ちしたイザークさんは、何故か背後の壁を裏拳で思い切り殴りつけた。主に拳の方が痛そうな音が鼓膜を叩く。勿論、壁はびくともしない。
 しかし、それでイザークさんには何事か分かったらしく、盛大に顔をしかめた。

「確かに。ギフトが効力を発揮していないね」
「え、今ので何が分かったの……」
「じゃあ、速く歩いてくれる?こんな所に長居はしていられないから、ね――」

 玄関の方を振り返った時だった。先程入って来た玄関の前に、給仕服を着た女が立っているのに気付いたのは。