第10話

05.


 少しの沈黙。先にそれを破ったのはイザークさんだった。

「海、空から見たらどう見えるのかな」
「何それ、高所恐怖症じゃなかったっけ?」
「いや?急に落下したり、心臓に悪いのが嫌いなだけさ。いいから早く、移動」
「え、何でこんなに偉そうなんだろ……」

 しかし、上空からの海については興味がある。私はイザークさんの腕を掴むと海原のど真ん中、雲の上――じゃない、雲のやや下あたりをイメージする。よく考えてみたら雪が降っているのに雲の上になんか出たら景色が見えないじゃないか。
 視界が歪む。
 次に視界がはっきりした時、広がっていたのは一面の海。大海原のど真ん中、を指定してしまったせいか島影はおろか船すら見えない。この広大な海原に自分自身しかいないような錯覚さえ覚えて身震いする。

「ちょっと、感傷的になってる所悪いけど、僕の存在を忘れないでよね。絶対に手を放さないようにしてよ。あとさあ、これ、どこ?雪止んでるね」
「アッ!?ほ、ホントだ」

 イザークさんの言う通り、雪が降っていない。というか青空が広がっている。そういえば、確かに『雪の国内部で』とは一言も指定しなかったような。
 ――まあいい、束の間の休暇を楽しまなければ。
 私はゆっくり視線を真下に下ろす。濃い群青色に見える海は恐ろしい程に凪いでいた。風の音か、波の音か。形容し難い、腹に響いてくるような大自然の音が鼓膜を叩く。

「何だか、言葉を失うよね。イザークさん」
「ま、こんな景色――早々見られるものじゃないしね。何だっけ、機械の国の『ヒコウキ』?とかいうのが完成すれば、こういう風景も手軽に見られるようになるのかな」
「ギフトを駆使しなきゃ見れない景色を?凄いね、科学が神様の贈り物に追い付いて来てるじゃん」
「そう上手くは行かないと思うけど?」
「そのうち、深海探索なんかにも行けるようになったり、し、て――」

 眼前。海の中から黒い影が浮き上がって来た。私はぎょっとして、しかし怖いモノ見たさの精神でそれに目を凝らす。
 私達はかなり高い場所にいるはずだが、それはハッキリと魚影に見えた。まだ親指くらいのサイズしか無いが、この高度からそう見えるのであれば、近付くともっと大きく見える事だろう。
 私はイザークさんにも分かるようにその魚影を指さした。

「あれ、魚かなあ?」
「大きすぎない?」

 一瞬だけイザークさんに向けていた視線を、例の魚影へと戻す。
 ――さらに大きくなっていた。というか、現在進行形で巨大化している。水面に近付いて来ているのだろうか。最早それは小島くらいの大きさになった。

「ちょっと、あれ、危ないんじゃない?」

 イザークさんが焦ったような声を上げた、刹那。
 『それ』は水面から顔を覗かせた。小魚がそうするように、水から跳ねた。しかし、小魚がちょっと水面からジャンプした、というスケールではない。
 茶色がかった巨大な体躯。クジラなどの比では無いそれはぽっかりと洞窟か何かのように巨大な口を開けている。先の見えない、真っ暗、真っ黒な大穴。湿った空気が頬を撫でる。
 あまりにも脳のキャパシティをオーバーしたような光景を前に、私は茫然と立ち尽くしていた。
 幾ら巨大な魚とは言え、私達が立っている場所にまでは届かない。
 スケールを脳内処理出来なかった私は、咄嗟にそう考えたのだ。
 次の瞬間、強い衝撃。ただしバリアの恩恵か、怪我をする程では無い。視界が暗転し、身体が急斜面を転がって行くような感覚を覚えた。