1話 学園生活1日目

07.中2の思い出とスクールカースト


 そういえば、日比谷桐真とは昔からあまり仲が良くなかったような気がする。先程の目付きを思い出していると、不思議とそれに連動してか昔の体験が脳裏を過ぎった。

 ***

 中学2年の夏。
 如月一家はとにかく旅が好きだった。どのくらい好きかと言うと、中学生の一人娘を家に残し、海外旅行へ繰り出すくらいにである。

 そんな旅行大好きママンからある日、土産にと大量のチョコレートが届いた。日本の歌詞ではなく、外国の。1粒食べてみて甘すぎると確信した依織は、早々にこのチョコレートを誰かに押しつけるべきと判断した。
 虫歯どころか糖尿病になりかねないからだ。

 そこで白羽の矢が立ったのが日比谷家である。記憶が正しければご兄姉が居たはず、この大量のチョコレートを自分より多く消費してくれると踏んでの事だ。
 思い立ったが吉日と、依織は午後8時という近所でなければ極刑に処されてもおかしくない時間に日比谷家を訪ねた。徒歩1分圏内だったので、躊躇う気持ちは微塵も無い。慣れた手つきでインターホンを押し、誰かが出てくるのを待つこと数秒。

 やがて玄関に出て来たのは日比谷桐真その人だった。心なしか顔が強張っているように見えたが、顔を合わせるや否や眉根を寄せる。
 基本的に人の機微を読むのに疎い依織は、そういった態度に頓着する事無く口を開いた。

「こんばんは!」
「……こんばんは。何か用か?」

 律儀に挨拶を返した日比谷はやはり困惑を隠そうともしない顔で依織を見ている。やはり構う事無く、早々と用件を告げた。

「あれ、家の人は? 居ないなら仕方ないけど、これ、お裾分け。何か親がチョコレートを大量に送ってきてさ。兄姉とかいたよね? みんなで食べて欲しいなあ」

 何とはなしに日比谷の立った間から家の中を覗き込む。
 ――静まり返っていて、人の気配は無いように感じた。というか、廊下も電気が付いていないし、独り暮らしの学生みたいな家の惨状だ。

 家の内部に気を取られている間に、日比谷少年は随分と機嫌が悪くなっていた。眉間に皺を寄せ、詰るような、不快な事を言われたような嫌悪感を滲ませているのが、流石の依織でも見て取れた。

「お前……うちに兄姉はいない。向かいの家と間違っているんじゃないのか?」

 渡そうと持っていた袋を、拒絶するかのように押し返される。
 目を丸くした依織は首を傾げた。

「え? 食べない……?」
「要らない。どうやってその大量のチョコを俺一人で食うんだよ。嫌がらせなら止めてくれ」
「えっ、あ、そういうつもりじゃ――」
「とにかく、そういう事だから。俺も暇じゃ無い。時間は考えて来い。じゃあな」

 ばたん、と盛大な音を立てて玄関のドアが閉められる。呆然とその光景を見つめていた依織は、一拍の後に我に返った。つまり、このチョコレートはお持ち帰り、という意味を悟ったのだ。

 しかも、あの怒りようからして自分は相当に無神経な事を言ったに違いない。がっくりと、酷く憂鬱な気分になりながら帰路につく。何故こう、人の神経を逆撫でするような事を言ってしまうのだろうか。
 家に帰っても両親は海外旅行でいない。
 日比谷の家を覗き込んだ時のような光景に、思わず溜息が出た。

 ***

 ゆっくりと現実へ戻る。そう、そうだ。あの時から仲が悪かった。今思えば、何故ご近所だからと言ってお裾分けを持って行こうと思ったのかさえ思い出せない。日比谷家の、別の誰かが出て来る事を期待していたのだろうか。かつての自分は。

 彼は繊細なタイプのイケメンなので、粗野でがさつな自分とは圧倒的に相性が悪いのだと思う。更に一人っ子らしい事を失念する痛恨のミス。こんな事で何故、記憶違いを起こしたのかさえ分からない。

 ――あれ、何で私、日比谷くんに兄姉がいると思ったんだっけ?

 不意に掠めた疑問。そもそも、兄姉が居ると思った切っ掛けは何だろう。まさかこんな隣の家の家庭事情が頭からすっぽ抜けていたとは考え辛い。

 何か引っ掛かりがあるようで、深く深く思考しようとしたその時だった。決して無視できない光景が視界に飛び込んで来たのは。

「これ、買って来たけど……」

 聞こえてきたのは男子生徒の声。なんだなんだと顔を上げれば、それなりに見覚えのある顔だった。名前は全く思い出せないが、恐らく同じ教室にいた、つまりはクラスメイト。
 そして、曖昧な記憶の彼と対峙しているのは例の不良生徒――海崎晴也だ。
 彼の名前は天沢から聞いたのでなんとか記憶出来ていた。何より、彼という存在がかなり危険人物臭を放っていたし防衛本能的な観点から見ても当然のことだろう。

 ともあれ、海崎は男子生徒がおずおずと差し出したペットボトルを不貞不貞しい顔で受け取った。これあれじゃないか、カツアゲ。

「この水しか無かったのかよ。品揃え悪ぃな」
「そんなの購買のおばちゃんに言ってくれよ……」
「チッ……」

 盛大な舌打ちをした海崎と男子生徒はそそくさと教室の中へ戻って行った。その光景を恐々と見送る。まさか、入学初日で人間の上下関係が決まり始めるとは。高校、恐ろしいばしょである。
 震えながらも、依織は教室内に入った。トイレと言って抜けてからそれなりに時間が経っている。そろそろ授業も始まる時間だろう。