1話 喧嘩屋の日記

05.マレビトとの邂逅


 その背中をあっさりと見送った万里は知らず知らずのうちに、疲れが溜まりに溜まった溜息を吐き出した。何故だろう、何かをした訳では無いのにぐったりと疲労感が渦巻いている。
 それは響鬼も同じだったらしく、ただでさえ強面なのに眉間の皺をぐっと深めていた。良い子なら泣き出してしまう事だろう。

「何だったんすかね、今の」
「あんな態度だが、この町で怪しげな会社の社長をやってるような奴だ。何故か潤沢な資金もある。次に会ったら、関わらずに逃げるのが吉だぞ。桐」
「頼まれたって、あんなのと関わりませんよ。マジで」

 あれは危険な人間の典型例だった。テンプレートから逸れた、アブノーマルな人間。関わり合いにならないのが一番だろう。とはいえ、既に響鬼は目を着けられている様子だったが。

「廃ビルの探索に戻るか。つっても、奴が居たのならマレビトそのものも場所を変えてる可能性があるか……。居るなら居るで、3階以上の場所だろうな」
「見てみますか」
「ああ、当然だ」

 上司の言葉を皮切りに、万里は階段へと足を向けた。

 ***

 廃ビル3階。
 一応、2階も覗いてみたがこのフロアだけは綺麗に片付けがされていた。誰かが住む為に片付けをしたのが一目瞭然だ。何かの死体も無ければ腐臭もしない。

 が、オフィスの窓枠に危なっかしく腰掛けている人影が一つ。彼は真っ直ぐに侵入者を見据えていたが、その面持ちには狂気の影がチラついている。何と言うか、飢えた獣と相対しているかのような、歪な感覚。
 40代くらいの男性であるし、見た目もサラリーマンっぽい。だが、とにかく纏う空気が異様の一言に尽きた。薄い笑みを浮かべ、宙を見ている様はいっそ不気味だ。

 ひやりと背に感じる悪寒。

「今度こそマジでマレビトなんだな……」

 その事実を噛み締めていた時だ。緊張感も無く、部屋の端に立っている響鬼が淡々と解説を始めたのは。タイミングというものがあるのでは。

「ああいった、人としての意思疎通能力すら持たないマレビトを『下位』と華客狩りでは位置付けている」
「えあ、そうっすか。ところでアニキ、今その情報、必要?」

 素朴な疑問を口にした瞬間だった。ゆぅらり、と窓枠から腰を浮かせたマレビトが一歩足を踏み出して距離を縮めて来たのは。ニュアンス的には海外映画のゾンビそのものである。
 人を襲う意思を隠そうともせず、両手を突き出して近付いて来る。襲う、という思考が先行しすぎているのだろう。

「応戦します!」
「おう、精進しろよ」

 奇声を上げて走り寄って来たマレビトの顎に掬い上げるような足技を見舞う。カウンターも何も無い、強いて言うなら的のように飛び込んで来たそれの身体が僅かに床から浮いた。
 そのまま、受け身も取らず床を転がっていく。あまりにも頭が悪くて絶句していると、すぐにそいつは立ち上がった。成る程、確かに人間よりずっと頑丈だ。

 視界の端にいる響鬼が僅かに首を傾げたのが見えた。見えたが、それに構う事無く、起き上がったマレビトを更に蹴り転がす。

「何だ、ラクショーだな」

 這いつくばったそれに、踵を思い切り振り下ろした。非常に痛々しい音が響き、ざらりとした感触が靴を通して足に伝わる。見れば、先程までちゃんと人の形をしていたそれは急速に形を失い灰の山へと変わってしまった。
 それにしても随分と骨のない連中である。一般人は確かに、急にこんなのが襲い掛かって来たら対処もクソも無いだろうが、華客狩りが手間取るような存在でもない。これが『下位』という事なのだろうか。

 ちら、と上司の方を振り返る。僅かに笑みを浮かべた響鬼は大きく頷いた。

「流石、喧嘩屋と言われるだけはあるな。躊躇いの無さが良い。いや、それは家柄のせいか?」
「性格の問題じゃねぇっすかね」
「いや、お姉さんに似て居るな。仕事をしている時の顔なんかが」
「姉弟すから」

 マレビトの消滅を確認しに来た響鬼が何気なく言葉を紡いだ。特に思う所は無いというか、職場に遠慮をしている部下に掛けるような言葉を。

「桐、武器類の支給が必要なら言って構わねぇぞ。やりにくかっただろ」
「……ああいや、別に。俺は姉貴とは違うアレなんで」
「はぁ?」
「ま、とにかく俺は素手が気に入ってるんすよ」

 そうか、と確認を終えた響鬼が肩に手を置く。

「よくやった。お前、なかなか肝が据わっているしもっと難しい仕事でも良さそうだな」
「うっす」