第9話

08.賢者と王族


 うんうん、と上機嫌に頷いたルーファスがまずは人払いをすると言って簡素な術式を編む。それが終了した直後、今度は先程の術式とは比べものにならないサイズの魔法式を編み始めた。
 その巨大さは以前、チェスターと『真夜中の館』にて対峙した時にイアンが使った魔法と同じか、少し小さいくらいだろうか。不安がムクムクと膨張していくのが分かる。

「お、おいイアン。これ本当に大丈夫か? 今ならまだ止められると思うが……」
「腹を括りましょう、ジャック」
「いやいやいや! 腹を括るも何も、あんたが正気を失って襲いかかってきたら俺達にはどうしようも無いぞ!?」

 本当に腹を括るべきは自分とリカルデである。同じ被害者である彼女の方を顧みるも、不安からか顔色の悪い騎士兵は早々に思考を放棄したようだ。眉間に深い皺を刻んで両目を閉じている。まさかの神頼み。
 その仲間の手前、自分だけが騒ぐ訳には行かない。ジャックもまた、顔をしかめるだけに留めた。そもそも、言い出しっぺのイアンが拒否しなければ現状の打開は不可能だ。

 問答を繰り返している内に、ルーファスの編む術式が完成形へと至る。少しばかり疲れた顔をした賢者は、そのままその術式を発動させた。最終確認無し。
 眩しい光が周囲を包み込み、一緒に立っていたジャックもまた堪えきれず目を閉じた。

「――どうかな、流石に何か思い出したと思うのだけれど」

 柔らかなルーファスの言葉。チカチカする視界に鞭打って、現状の様子を確かめる。賢者と対峙するイアンの横顔を伺うも、いつも通り過ぎて何を考えているのかは読み取れなかった。
 ややあって、イアンはルーファスの問いに対し首を縦に振る。

「ええ、確かに。私は――」

 応じようとしたイアンの言葉が止まる。何事かと思えば、ぎょっとした顔のルーファスがイアンを飛び越え、その背後に立つ人物を捉えていた。
 慌ててジャックもまたそれに倣う。

「取り込み中、済まない。少し良いだろうか」
「見ての通りさ、出直して来てくれるかい。僕達は忙しいんだ」

 平坦な声音、その容貌は何度か見た事があり、且つ忘れる事が容易ではない者だった。彼の名前はブルーノから聞いた。曰く、王族の――ルイス。
 目を眇めたルーファスはなおも言い募る。

「悪いけれど、今日は君の事は別に捜していないんだ。あっちへ行っていてくれるかな」
「そうか。だが、私を捜していたのだろう。こちらも暇では無い、時間を貸して貰おうか」

 2人の間に挟まっていたイアンがするりと身体を回転させる、そのままこっちへ向かって来たのでジャックはぎょっとして身を固くした。が、彼女はいっそ清々しい程に全く以ていつも通りに言い放つ。

「離脱しましょうか。戦って勝てる相手ではありませんし、2人の軋轢に私達が関わる必要も無いでしょう」
「え、あ、記憶は良いのか?」
「それは戻りました。そもそも、無くしていた訳ではなかったようですね」
「と言うと?」
「誰かさんの魔法によって、奥底に封じ込められていただけです。そもそも忘れていた訳でも無かったので、恐らく人格に関しても影響は無いかと。とはいえ、貴方達に私がどのように見えているかは判断しかねますが」

 ――いや人格は矯正されてるよ、若干……。
 今までゲーアハルトの召喚獣戦でしか聞いた事の無い撤退の二文字に目を白黒させる。一瞬前までの彼女なら、後ろで勃発しかねない大喧嘩にも興味本位で割り込んだはずだ。
 が、それを伝えて気変わりされても困るので指示に従う素振りを見せる。へそを曲げられては事だ。

 しかし、結果として撤退する暇は無かった。
 こちら――というか、イアンを一瞥したルーファスだったが舌打ちと同時に戦線を離脱。用事があったと思わしきルイスもまた、賢者の後を追わなかったので戦闘が自動的に終息する事と相成ったからだ。
 ただし一つだけ問題がある。
 ルーファスがいなくなったにも関わらず、ルイスがその場に残った事だ。