02.思い出
しかし、チェスターが船について打ち出した答えは保留だった。
「私から言えるのは、船を止めたのはゲーアハルトかバルバラである事だけだ。が、期間が超過している。上の誰かが止める指示を出したのかもしれんな」
「と言いますと、宰相殿なんかですか?」
「そうだな。だが、あの出不精がお前の逃亡を把握し、更に固執しているとは思えない。であれば、研究所からの強い要請でジャックの件において停止指示を出している、というのが妥当か」
「つまり、分かんねぇって事か」
「……そうだな」
ブルーノの核心を突く一言にチェスターは渋い顔で首を縦に振った。分からない、という事実を認めたくなかったのだろう。
あとよ、と船に乗らない予定のブルーノが呟く。
「ルイス様はともかく、ルーファスさんは何でイアンに粘着してるんだ? 行く先々にいるな、この頃」
「それは、確かに……」
「イアン、お前、記憶喪失だ何だと言ってたが。結局の所、どこからどこまでの記憶が無いんだ?」
「私の記憶は過去10年程しかありませんね。帝国に来る前は何をしていたのかすら、不明瞭な状態です」
「大事じゃねぇか! いや、よく落ち着いてられるな! あれ、前にもこの話したか……?」
――言う通りだ。当事者がけろっとしているので慌てるという感覚が薄れているが、実際には大問題。落ち着いていられる状況では無いはずだ。
そして適当に放置していた問題は、現在大きな謎として立ち塞がっている。とはいえ、イアン本人は特に気にした様子は無いが。
「10年……10年か。その頃は私も既に帝国勤務だったが、ん……?」
唯一イアンと同僚である吸血鬼は困惑したような顔をした。
「お前が帝国で勤務していたのは4年前からだな? 人間は歳を取る生き物であるはずだが……代わり映えの無い奴だな、貴様は」
「4年で人の外見などそうそう変わらないでしょう」
「……それもそうか」
一つ良いですか、とイアンが口を開く。
「『真夜中の館』へ来て一つ思い出した事があります。というか、ルーファスさんの話を聞いた上でここに来たから思い出したのでしょうが……。私は確かに、ここへ、誰かを頼って親と来た事がありますね。その時にあの自称・師匠がいたのかどうかまでは思い出せませんが」
「何? 私は貴様に会った覚えなど無いのだがな」
「そうですね。私も貴方と当時、会った記憶は無いですし。あの時の館の持ち主は……」
パン、とチェスターが手を打った。話題を取り纏めるように言葉を紡ぐ。
「館が私のものとなったのは、50年以上前の話だ。私では無い誰かを頼って来たと言うのであれば、それは私の叔父であるフィリップで相違ない。ただ――先にも言った通り、館が叔父の物であったのは50年前の話となる」
ここに来て絶対に間違いは無いと断言する口調。ぎょっとして、ジャックはイアンの顔を覗き込んだ。彼女は間違いなく20代女性で、50以上の齢を重ねているようには見えない。
それを加味した上で、ブルーノがぽつりと呟いた。
「ここに来て、お前の人外色も濃厚になって来たな、イアン……」
「ええ、まあ、否定は出来ませんね。ただ、その頃の私は今より身長がずっと低かったはず。見える景色、思い出の中の景色は館の全てが大きく見えた。つまり、私にも子供時代があったという事になりますね」
「いやお前、これで子供時代が無かったら完全に人外だぞ……」
――最初からあってしかるべき仮説だったのかもしれない。
そもそもイアンの異常な魔力量は人間のそれを大きく上回っていたし、知識量も最初から豊富だった。過去の記憶が無いだけで、魔法は問題無く扱っていたようだし。あまりにも人間という生物にしては、あらゆるものを超越しすぎていた。
リカルデが不意に提案する。
「そうだ、もういっそ全てを思い出すつもりでヴァレンディア内部を散歩するのはどうだろうか? 他の事も芋づる式に思い出すかもしれない」
「……そうですね。ええ、そうでしょう。それでは、貴方の言う通り散歩でもしてみましょうか」
私は行かんぞ、と吸血鬼が首を横に振る。
「昼間からこの炎天下の中、外など歩きたくは無い。貴様等だけで行け」
「あー、俺もちょっとやる事あるな。パスで。イアン、お前は一人で外を彷徨いても問題ねぇだろ」
意外にも付き合いの良いブルーノまで辞退を表明。とはいえ、昼間から怪しいこの面子でぞろぞろと散策するのも浮くので、それはそれで良いのかもしれない。
特にやる事も無いジャックは散歩に着いていく事を決めた。当然、言い出しっぺのリカルデは動向の意を口にしている。
「では、取り敢えず町にでも下りてみましょうか。何か発見があると良いのですが」
「あんた、あんまりアテにしてないだろ」
「お散歩程度で無くした記憶が戻るのであれば、10年も無為に過ごしたりはしませんでしたよ。早々に帝国での職務を辞めていたでしょうね」
そういえば、何故彼女は帝国で顧問魔道士などしていたのだろう。そもそも、帝国も帝国で記憶の無い怪しい女をよくも内部に引き入れたものだ。考えていた事は同じだったのだろう、リカルデが冗談めかして言った。
「何というか、最初から全て全て仕組まれていた事だった、なんて事だったりして」
「と、言いますと?」
「宰相殿とやらはイアン殿を知っていて、それで顧問魔道士にした」
「発想力が豊かですね、リカルデさん。イーデン宰相に関しましては、私はお会いした事すらありませ――いや、そういえば役職に就いた折、一度だけ話をした事がありました。ええ」
「はは、それもそうだ。いや、私の妄想なんてイアン殿にお聞かせするにはあまりにも稚拙過ぎたな」
かましく喋りながら館の外へ。ああそういえば、このメンバーはあの帝国から逃げ出した時の最初のメンバーだな。何となく楽しくなって来て、薄く笑みを浮かべる。さあ、ヴァレンディアの散策だ。