第3話

15.ジャックの価値観


 イアンは自身の腕を掴んでいるジャックの手を睨み付け、そしてそのままジャック自身を視界に入れる。怯えた表情をした割には、その手の力が緩む事は無い。

「何のつもりですか。まさか、寝返り?」
「や、流石にやりすぎだろ。もうこの辺にして逃げるぞ。俺達の目的はバルバラを惨殺する事じゃない」
「それは貴方達の目的であり、私の目的ではありませんね。放してください。邪魔です」

 主人の身を案じる侍女。これを排除してしまうという事は即ち、バルバラのブレーキを壊すという事。そんな愉しそうな事を野放しにして逃げ出すなどあり得ない。そんなに逃げたいのであれば、リカルデとブルーノを連れてさっさと撤退すれば良いのだ。

 抗議の声が言の葉になるより先に、強い力で腕を引かれる。

「いいから!行くぞ!」
「待って、まだ――」

 茫然と立ち尽くすバルバラをもう一度視界に入れる。そこには煌々と燃えていた憎しみは欠片も宿っていない。毒気を抜かれた、または「頭の中では」死人より生者の救出を急がなければならないという理性の箍が復活したようなハリのない顔だ。

 踏ん張って腕を振り払おうと画策するが、相手は成人男性の体格に魔改造を加えられたホムンクルス。魔道士程度がどう抵抗しようとそれを歯牙にも掛けず、様子を伺っていたブルーノ達の元へ舞い戻る。

「おう、ジャック。お前ホントに優しい奴だな。置いて行くって選択肢もあったぞ」

 ブルーノがイアンの方を顎で指しながら言う。
 全く持って彼が言う事は正しかったが、ジャックは伏し目がちに首を振った。

「3人で逃げ出したんだから、ちゃんと最後まで3人で逃げるべきだろ。用が済んだら魔道士だけポイするなんて、俺には出来ない。そんなの、用済みだからと廃棄処分されたキョウダイ達に顔向け出来ないだろ」
「キョウダイ?」
「話した事も無いし、アイツ等に意志があるのかは分からないがホムンクルスは俺以外にだっているだろ。まあ、大気に触れたら崩れる奴が大半だったが」

 未完成の人造人間。彼等の事を指して『キョウダイ』と言っているらしい。呆れるような繊細な思考の持ち主である。
 リカルデがジャックに訊ねた。

「このままどこへ向かう!?港町から出るか?」
「このまままずは港へ行こう。運が良ければ船が出てるかもしれない」
「それがいいだろうな。港の船は大体15分おきに出ている。運が良ければ駆け込み乗船出来るだろう。それでいいだろうか、イアン殿」

 やっと手を振り解く事に成功した。どんな力で握っていたのか、ローブの下の素肌は赤くなっている。
 無言を否定の意だと解したのか、リカルデがなおも言い聞かせるように言いつのる。

「ここはジャックを立ててくれないだろうか。さすがに貴方と言えど、あの人数の中に一人残されれば命は無かっただろうし――」
「分かっています。頭も冷えましたし、目も醒めました。夢のような時間はいつだって一瞬です。一期一会、あの期を逃したのは私の失態でしょう。港はこちらですよ」

 遅れて火災を報せる警報が町の中に鳴り響く。続いてクラーラの落ち着いた声が避難勧告と避難指示を開始する。燃えているとはいえ、広い港町の一角が火の海になった程度だ。大半の人間には被害も出ていないだろう。

 自分でやらかした事でありながらも冷静にそう結論付けたイアンは角を曲がり、坂を駆け下りて港を目指す。後ろは肉体派なので魔道士の足には悠々と付いてくるらしく、呑気に今後の計画なぞを話していた。恐ろしい体力と肺活量だ。

「着きましたよ」

 一際大きな建造物。絶えず人が出入りするそこはまさしく再会と別れが繰り返される、人が来、出て行く大陸の出入り口に他ならない。
 それは火事が起きている最中も同様。僅かではあるが通常とは違った空気も流れているが、大半の人は火災現場と思わしき煙が上がっている方向を一瞥しては足早に去って行く。

「お、おい!船にはどうやって乗るんだ?」
「まあ、海に行った事がねぇなら船に乗った事も無いわな。あー、まずは確か――そう、切符を買って……」

 ブルーノがジャックへ発券機の使い方を説明している傍ら、5分後に船が出発するという表記を発見。行き先は――アクリフォ大陸。隣の大陸だ。

「リカルデさん。乗船券を買っている暇は無いと伝えてください」
「えっ!あ、ああ!待て、イアン殿はどこへ行くつもり――」

 リカルデの言葉に片手を挙げて適当に聞き流し、ローブに手を突っ込む。乗船券を船へ乗る客から受け取っている船上員に声を掛けた。

「すいません、もう出ますか?今ついて、ちょっと乗船券を買っている暇が無いのですが」
「あー、すいませんねえ、お客様。乗船券を購入した方しか船に乗せるなってお上からきつく言われてるんですよ」

 ――成る程、身分証明書か。
 乗船券を買うには身分を証明出来る物が必要だ。例えば、かつてアレグロ帝国顧問魔道士であった自分ならば帝都へ出入りする時に使っていたパスポートで十分だろう。
 ただし――ジャックの身分を証明する物は無い。彼は厳密に言えば帝国民ではなく、作られた量産型兵士、即ちホムンクルスだからだ。ホムンクルスは帝国にとってみれば人間の代替品。代わりの玩具を国民と認める事は無い。

 となれば、次の船にも恐らく乗れない。
 ローブから手を引き抜いたイアンは、他者の目に写らないような動作でそっと手の中に持っていたそれを乗船員に握らせた。

「これはほんの気持ちです。私と、それから後ろの3人……乗せてくださいますよね?」

 折りたたんだ紙幣、それを強調するように乗船員の拳を撫でる。具体的に何アピ握らせたかは卑しい話になるので伏せるが、これだけの金があれば4人で船に10回は乗れる事だろう。

 一瞬だけ目を見開いた乗船員はしかし、その顔に笑みを浮かべた。

「ええ、確かにチケットを受け取りました。4名様ですね」
「ええ、ええ。すいませんね、ご迷惑をお掛けして」

 乗って良いそうですよ、と突っ立っていた同行者に声を掛ける。ブルーノとリカルデは気まずそうに失笑し、ジャックだけは首を傾げていた。