3話:忘れられない体験学習

01.1日目

 1ヶ月間の体験学習、その1日目。
 午前9時の時点で、壱花はクラウスと共にトレーニングルームを訪れていた。余談だがここに来るまで誰にも遭遇していない。人の目に触れてはいけない、という謎ルールは健在らしい。

 何も無い部屋を何とは無しに見回していると、バインダーを持ったクラウスが頼りなげな顔で息を吐いた。眉間には深い深い皺が刻まれているのが伺える。

「クラウスさん、今日は何をするんですか?」
「えーっと、今日は……神通力のコントロールかな」
「じんつうりき」
「君が使う、物を浮かす能力の事は、そう呼ぶように決まったそうだよ」
「はあ、そうですか」
「好きな時に、好きなだけ。力が使えるようにならなきゃいけないみたいだ……。はあ、僕は、そんなに魔法が得意じゃないんだけどな」

 教官が既にやる気を失っている、というか戦意を喪失していた。大丈夫だろうか、こんな調子で。
 更にクラウスが書類を捲り、更にくらい顔をした。一体、何がそんなに彼を追い詰めると言うのか。困惑を禁じ得ない。

「あと……結界の維持と、波長の調査、か。アナベラさんが来るのかなあ、今日は。……あ、来るみたいだね。右端にメモしていたよ」
「クラウスさん、しっかりして下さいよ。不安になってくるんですけど」

 そう言うと、クラウスは僅かに驚いたような顔をした。いやいや、驚きたいのはこっちだ。何でそんなに自信がないのか。相手はまだ高校生の小娘だぞ。

「そう、だね。うん、ごめんよ……。アナベラさんは昨日、仕事だったから遅れて来ると思う。僕達で先に出来る事はしておこうか」
「あ、はい。了解です」

 やや正気に戻ったようだ。相手が小娘である事を思い出したのだろう。落ち着きを若干とはいえ取り戻したようだ。
 相変わらず立ち並ぶロッカーから例のサンドバッグ、もとい砂袋を取り出す。今思えば、あの砂袋は恐らくかなりの重量だ。よくもまあ片手間にそれを持ち上げ、然るべき箇所にセッティング出来るな。
 自信のなさからひ弱そうな印象を受けるが、こんな物を軽々と持ち上げる彼に殴られたら死ぬのでは。

 恐々とその様を眺めていると、設置を終えたクラウスがふう、と一息吐いてこちらを振り返った。

「よし、準備が出来たよ」
「これを、どうするんですか? また昨日みたいに裂くんですか?」
「そうなんだけど……そうだなあ、昨日はそれを簡単にやったから、今日はこの中身だけを攻撃してみようかな。内側から破裂させて欲しい」
「内側から」

 それは中身の砂を動かして、内側からサンドバッグを破壊しろとそういう事だろうか。不安さが前面に出ていたのかもしれない、少しばかり焦った様子のクラウスが首を横に振った。

「ああ、そんなに心配しなくても大丈夫だよ……。出来なければ別の方法を考えるからさ」
「うーん、取り敢えず試してみますね。というか、私も何でこんな力が使えるのか分からないし」
「えっ、そうなのかい?」
「え、ええ。分かりません」

 大丈夫かなあ、とそうクラウスが呟いたのはしっかりと聞こえていた。とにかく、お題をクリアするのが先だと聞こえなかったふりをする。

 まるで今までそうして来たかのように、壱花は手の平をサンドバッグへと向けた。その中にある砂をイメージし、狙いを定める。ゆらゆらと頼りなげに揺れていたサンドバッグの、その内側が膨らむ。
 サンドバッグの生地に遮られ、見えないはずの中身が意思を持ったかのように暴れるのを、確かに両の眼で見た。

 刹那、びりびりと繊維が引き離される音と共にサンドバッグの一部が裂け、中身の砂が溢れだす。溢れた砂は床に小さな山を作った。

「あ、案外簡単に成功させちゃったな……。サンドバッグの中身は見えないはずだから、手こずると思っていたけど……」
「あの、中身見えました」
「え? ああ、何て言うんだっけ、透視? 色々オプションが付いているんだね、カミサマ。んー、もっと色々やらせた方が良いのかなあ。君も気付いていない力がまだまだありそうな気がする……」

 先日、オルグレンがそうしていたようにクラウスもまた書類に何かを書き込んだ。待っている間、壱花はほとんど中身が無くなってしまったサンドバッグへと視線を移す。
 そして戯れに砂を持ち上げてみた。こういう、たくさんの粒を持ち上げる事は出来るのか単純に気になったからだ。結果、床を盛大に散らかしていた砂はあっさりと持ち上がった。
 片付けるのを楽にする為、吊られたままのサンドバッグ生地を床に下ろし、その上に砂を乗せる。一連の行動は全て、手を使わずに遂行出来てしまった。

「これって、僕が何かを教える必要があるのかな……」

 ――あるんじゃないですかね。私も、何でこんな事が出来るか分からないし。
 という言葉は呑み込んだ。残念な事に、彼が自分の問いに対して親身になって答えてくれる可能性は限り無く低い。ストレスに弱そうだし、余計な心配は掛けない方が良いのだろう。
 ううん、と悩ましげに呻ったクラウスが天井を仰ぐ。

「困ったな、やる事がないや……」