11.対神(2)
はあ、と息を吐き出した烏羽が口を開く。奴は相手を煽らなければ死ぬ呪いにでも掛かっているのだろうか。
「はは! 貴方、結界もまともに視認できない程、落ちぶれてしまったのですか? ええ、とんだ笑いのネタになりそうで何より何より! というか、不意討ちしか能の無い貴方が目の前に出てくるなど端的に申し上げてお馬鹿かと」
「……」
「それにしても、五重に結界を張ったのですがね。ええ、全部貫通するとは。ふむ、貴方がどうと言うより私の力が衰え――」
などと長ったらしい口上を述べていた瞬間だった。腕ごと固定されて、身動きが取れなかった薄藍が唯一自由な足を振り上げる。そのまま、足裏で踏み潰すように自身の行動を妨げる結界へと蹴りを入れた。
途端、そもそもから彼の攻撃で綻びが生じていた結界に取り返しの付かないような、大きなヒビが入る。それを認識してからは一瞬だった。
大量のガラスをまとめて叩き割ったかのような、盛大な音。崩れていく壁の中、自由になった薄藍が恐ろしい執念で以て、三度地面を蹴る。
「……っ!」
息を呑んだのは誰だったのか。花実自身だったかもしれないし、余裕ぶっこいていた烏羽だったのかもしれない。
ほぼ反射の領域だったのだろう、薄藍の反撃を経験則ですぐに察した烏羽が足を振り上げる。形容し難い、聞くもおぞましい骨が折れるような、しかしそれとは違うような断定の出来ない音が鼓膜を打つ。
それは綺麗なカウンターだった。正面から向かってきた薄藍の胴体を寸分の狂いなく烏羽の左足が打ち抜く。推進力をあっさり殺された薄藍の身軽そうな身体がほんの少しだけ地面から浮き、そしてそのまま背中から倒れた。
今度こそ指先さえ動かさず、仰向けに倒れたまま、起き上がってくる気配がない。
「ええい、不便な身体よな……。すいません、少々お待ちを」
やや苛ついた口調でそう言った烏羽は左足を負傷していた。刃物を持っている相手と、ああいった状態のもみ合いになれば当然である。脹ら脛から足首の辺りまでさっくりと切傷を作り、上等そうな衣類を赤で汚しているのが分かった。
烏羽が少し身を屈め、傷口を大きな手で覆う。淡い色の光が漏れたかと思えば、すぐに姿勢を正した。汚泥で負傷した時のように術とやらで治療したのだろうか。
「……大丈夫? 烏羽」
「ええ、お見苦しい所を。大変申し訳ありません。ええ、少々、身体の方が不便で。召喚などされればそうでしょうね、はい」
――やっぱり伏線なんだろうなあ、強化メニューの。
一人で納得する。しかし、強化と言うより「召喚された事で身体の具合が変わりました」感が凄いのだが。マイナスからスタートしているのだろうか。
「それにしても、どうして薄藍? は汚泥から飛び出してきたんだろう。烏羽は手が溶けそうになってたのに」
「それこそが我々、世界の敵である証に違いないでしょうね! ええ! ふふ、当然、普通の神使であれば全身汚泥に浸かれば奴等の養分に早変わりですとも」
「仲間だから、汚泥に溶かし崩されなかったって事……? 何で汚泥は神使を?」
「拠点を守る為に張られた結界を突破できるのは、同じく神使の我々だけ。ええ、実に効率的な手段を講じているようですねえ、はい」
――確かに、結界を超える為には神使が必要。なら、その神使を取り込むのは当然の発想かも知れない。
それに薄藍の様子は正気だとは言い難かった。何者かに操られているような、酷く混乱しているような状態。これが汚泥の力だとでも言うのだろうか。
「さて」
話を変えるかのように気安い足取りで、烏羽が倒れたままの薄藍へと歩み寄る。どうするつもりなのか。
「奴をこのままにしておく訳にもいきませんねぇ。ええ。汚泥に操られ、主神への背信行為――これ以上の生き恥を晒す前に破壊してしまうのも、一つの慈悲というものでしょう、ええ」
「ちょっと? どうするつもり?」
「なに、終わらせて差し上げようかと。ええ! 何て優しいのでしょうか、私!」
「は?」
「ええ、我々は召喚士一行として正気を失った神使を討伐! 村の平穏を守ったのだと、あの薄桜に報告致しましょう! 此奴の首を持って!」
「ええ!? 嘘でしょ、吃驚する程最低なんだけど!?」
思わず声を荒げてしまった。性格が悪いとか、そういうレベルを超越した瞬間である。もしかして彼、サイコパスの類いなのでは?
しかも決して彼が嘘を言っている訳ではない事など、はっきりと分かっている。奴は本当に薄桜への手土産に対神である薄藍の首を持って行こうとしているのだ。当然、親切心などではない。純度100%の悪意でだ。
――不意に烏羽が何かに気付いたように、一層にやけ顔を深める。ややあって、パタパタと盛大な足音を立てながら薄桜が姿を現した。
彼女は到着し、惨状を見てすぐに何が起きたのか理解したらしい。走って来て僅かに乱れていた呼吸を更に乱しながら叫ぶ。
「薄藍!!」
あまりにも悲痛な声。対神だと聞いていたが、同期よりもっと親密な関係性である事がすぐに分かってしまった。血の繋がった家族くらいの関係性だと思うのが正しいのかもしれない。
取り乱した様子で倒れ伏す薄藍に近寄った薄桜。烏羽は愉しそうに、駆け抜ける彼女をスルーした。ちっとも愉しげな状況ではないのだが、彼にとっては面白い光景なのだろう。全く理解は出来ないけれど。
何と声を掛けるべきか、或いは見守るべきなのかを逡巡していると、そろそろとその場を離れた烏羽が花実の隣にちょこんと並んだ。
「ほら、召喚士殿。もしかすると対神同士の熾烈な争いを観戦出来るやもしれませんよ。ええ、愉しみですねぇ、はい」
「いや、ちっとも楽しみじゃないけど……?」
ここを最高の観戦席だとでも思っているのだろうか。烏羽はワクワクとしているような面持ちで対神達を観察している。
薄桜はと言うと、薄藍の身体をそっと揺すっていた。その表情にはありありと心配の気持ちが浮かんでいる。無事に目を覚ますといいな、と思う反面、彼が目を覚ませばまた襲い掛かって来るのではという疑念が花実の心に暗雲をもたらした。