プロローグ

 アトランティス皇国、郊外に広がる深い深い森。生い茂る木々のせいで常に薄暗いその場所は曇り空のせいもあってか、ほとんど明かりのない状態だった。今が何時なのかも分からず、それでも完全に日が暮れたわけではない明るいのか暗いのかもよく分からない木々の間から見える小さな空を見上げた。
 ぽつり、と頬に冷たい雫が当たる。どうやらそろそろ降り出すらしい。銀色の小手を付けた親指の腹でぼんやりと落ちて来た雫を拭う――と、親指の動きに合わせて顔の上を何かが延びたような気がして我に返った。
 慌てて自らの手の平を確認する。
 ――粘性のある、赤。
 パタパタと剥き出しの首筋や頭の天辺に冷たい雨水が触れる。突如降り出した雨は確認していた手の平にも例外なくその雫を落とし、赤い液体と混じって、手から滑り落ち地面に溶けた。
 雨水と混ざった赤色を自然と目で追った為、ようやく現実へ帰る事に成功したようだ。下を向いた拍子に、『現実』を垣間見る。
 鉄のブーツをしとど濡らし、元は健康的な色をしていたであろう土を赤く汚す、人間の血液。自分の頬を拭った手とは反対の手に握られた鈍色の刃には皇国の騎士である事を示す紋章が燦然と輝いている。更にその先には人が4、5人ほど折り重なって倒れていた。
 再び自分の足下、ブーツの爪先へ視線を落とす。甲冑は変わらず着込んでいたが、兜は早々に外してしまいもうどこへ行ったのか分からない。そもそも兜は素早い動きを生業とする自分の戦闘スタイル的にはただ邪魔であり、着けて来たくなかったのが本音なのだが。
 鉄製のブーツは雨を受けて再び鈍色の輝きを取り戻しつつある。それまで土と血を跳ね飛ばし歩を進めていた為、どす黒く汚れて見るも無惨な状態であったのだが。
 額を伝って流れてきた雨水が目に入った。小手を着けた手で拭うわけにもいかず、何度も瞬きを繰り返す。

「――泣いてるみたいだ」

 聞き覚えのある声にゆるゆると顔を上げた。決して個性が無いわけではないのだが、性差を感じさせない中立的な声。少し声の高い青年のような、少し声の低い少女のような。大人であり、子供でもある。脳が理解を拒絶するくらいにはちぐはぐな印象を同時に内包した、酷く矛盾した声。こんなもの間違えるはずがない。

「私が、泣いているだって?まさか。……それより、何故君はここにいるんだ?」

 ようやく目の痛みが引いてきたので、正面にいつの間にか立つその人物を見やる。真っ黒いローブを着、フードは目深に被って口元しか見えない。その形の良い唇に白々しくも皮肉っぽい笑みを浮かべ、その人物は問いに対する答えを口にした。

「暇だったんだよ。屋敷でゴロゴロ過ごしているのもさ。ちょっとした物見遊山だろ、そう目くじらを立てるなって」

 正気とは思えない答えにくらり、と眩暈がした。
 分かっているのだろうか。いいや、分かっているはずだ。
 今この森で、皇国軍による『危険因子の完全排除』を名目としたそれなりに大規模な作戦が行われている事くらい。

 ***

 第6師団師団長・アリシア=クロッカー。
 それが自分の肩書きであり、それなりに誇りもあり、同時にそれらしい重責もあった。それらは人の上に立つものが当然味わう、謂わば通過儀礼のようなものであったしアリシア=クロッカーという小娘を育てる為に必要な糧であるとも分かっていた。ガチガチの騎士思考であった自分はその苦渋が成長している証しであると信じて疑わなかったのだ。
 ――それなのに。
 物見遊山、つまり見物を語った屋敷の居候――この1年で掛け替えのない友人に昇格したその人物に対し、気付けば問い掛けていた。

「教えてくれ、ワルギリア。ここに倒れている人間は――何だ?」

 倒れている計5名の男性。手にはボウガンやら簡素な造りのハンマー、斧などを持っていた。今は持ち主を失い冷たく雨に打たれているがつい数十分前には彼等を護る武器として活躍していたのだ。
 ふむ、と友人――ワルギリアは小さく頷いた。

「じゃあ先に聞かせてくれよ。欲しいのは無機質且つ機械的な事実か、私の深い慈愛に満ちた慰めか」
「私は本当の事を知りたいんだ!彼等は本当に……皇国に反旗を翻した、危険因子なのか」

 そうか、と溜息のように呟いたワルギリアはそれ以上の追求をせず、代わりに求めた答えだけを淡々と言った通り無機質に語った。

「お前が軒並み撫で斬りにしたその男共は全て皇国の国民だ。重税に耐えかねて直接国へ訴えかけようとしていた、な」
「……それは」
「皇帝に到達する前に排除命令が出てお前達、騎士団が駆り出された。それが真相だし、敢えてそいつらの身分を明かすのならただの一般人が一番相応しいだろうよ」

 ぎり、と奥歯を噛み締める。本当は薄々気付いていたはずだ。彼等はただ今年の税を納められず、暴挙に出る他無かった小さな村の働き手であると。
 居候である彼女が何故、そのような事実を知っていたかは分からない。ただワルギリアは今までアリシア本人が望む答えを提供し続けてきた、自分にとっては真実を語る生き字引に他ならない。最早彼女がどうしてその事柄を網羅しているかなど、気にもならなかった。それを気にするだけ無駄だと悟ったのかもしれない。

「……ワルギリア。では、私が今までやってきたこの任務は、罪も無い一般国民を皆殺しにする任務だったのか?」
「違う違う。お前がやったのは、反乱っていう罪を犯しかけた危険因子の排除、だろうが。ここ重要だろう、騎士様」

 それは慰めでも何でもなく、アトランティス皇国、という国を極限まで皮肉に嘲ったワルギリアの言い分だった。クツクツと嗤うワルギリアは美しい。有名な絵師が描いた絵画をそのまま切り取ったようだ。
 遠くで騎士団の仲間が自分を捜す声がする。それもそうだ。もう掃討任務も佳境。最後の仕上げを残すのみである。

「もう辞めれば?」

 疲れ切った心に響く、不思議な声。でも、と形の無い否定が喉を突いて出る。根拠は無く、確信も無く、意味も無い。本当に無意味なただの音のような言葉。
 ふと、ワルギリアを見つめてみる。
 フードの下はまるで聖母か何かのように全ての罪を赦し、逃走を赦す、そんな笑みを浮かべているように見えた――そうであって欲しかった。

「……分かったよ、ワルギリア。じゃあもう、辞める。けれど、君が言い出した事だ。このまま振り逃げするなんて馬鹿な事は無い……んだろう?」
「ふぅん。そこそこ冗談のつもりだったけど、割と限界だったんだね、お前。この後の目処は、まあ立ってないな。じゃあ、まずはお前の屋敷に戻るぞ。置き忘れたものがある」

 それだけ告げたワルギリアが踵を返す。まるで自分の家へ帰るような足取りだが、それは彼女の家ではなくアリシアの自宅である。