4.
ぎょっとして自らの手に視線を落とす。
ぽたぽたと赤い雫が手首を伝って行くのが見えた。更に目を凝らしてみると幾重にも細い糸が絡まっているのが分かる。
「う・・・」
思考が停止した。それは一瞬の出来事ではあったものの、アーサーには十分過ぎる程の時間だ。ふと、影が差したので顔を上げるとすぐ目の前に上司の胡散臭い笑みがあった。息を吐く暇も無く、首筋にナイフの刃が宛がわれているのを確認し、力の抜けたような溜息を吐く。
「ふ、私の勝ちか。まあ、負けるつもりなど無かったが――」
す、とナイフを下ろしたアーサーの逆の手が出血しているイアンの手を緩く撫でた。
「しかしこの決着は無いだろう。君は曲がり形にも魔道士だったんじゃないのか?」
呆れたような口調。巻き付いていた糸の感覚が消えたので怪我の部分に視線を落とし、落として先程より盛大な溜息を吐く。
――そこには傷跡も何も無く、袖口を濡らした血痕さえ跡形もなかった。
「幻術、ですか?」
「まさか。私は魔術をあまり使わないからな」
「・・・目が合ったと思ったのは気のせいじゃなかったんですね」
「ああ」
ではコンタクトにでも仕込んだ暗器の類だったのか。いまいち釈然としないが、あの目が合った一瞬で何かしらの細工をされ今まで怪我をしたのだと『思い込んで』いたらしい。あの時の違和感はこれだったのだ。素直に自分の勘に従っておけばよかった。
やっと糸から解放されたドリスが大きく息を吐き出す。それまで酸欠状態に陥るのではないか、と言うぐらい浅い呼吸を繰り返していた彼女の顔色はあまりよろしくない。
「ほら、これが目当てだったんだろう」
ずいっと皿を差し出される。それには豪勢なケーキが1つ乗っていた。
「毎年君達は飽きもせず私が取り寄せたこのケーキに群がって来るが・・・いや、いい。部下との親睦を深める為だ。君達の醜い取り合いについては目を瞑ろう」
何かもの申したげなアーサーだったがそれ以上は何も言わず、黙って客用のソファを指さした。暴れ回ったので執務室は今までに無い悲惨な状態になっているが、誰も気にする者はおらず、ただ差し出されたケーキにフォークを突き立てた。
「アーサーさん。これ、超美味しいですね」
「・・・それ、1つ幾らするか教えようか?」
「いえ、いいです」
一欠片、口へ運ぶ。
成る程、こんな味を知ってしまえば下手に他のケーキは食べられなくなりそうだ。