初めての気持ちだったんだよ

 その日、幸野巴は親友である橘六花の家を訪れていた。引っ越した彼女の家はマンションであり、下で会った管理人らしい人物は実に柔和な雰囲気で良い人そうだった。
 それはいい、それはいいが、何故かインターホンを押しても誰も出て来ない。事前に行くと言っていなかったので留守なのだろう。唐突に尋ねておいて文句は言えまい。寮生である友人二人は大概寮にいるものだから完全に油断していた。

「あれー・・・可笑しいなぁ。今日はついて無いんでしょうか」

 ――六花が便宜上、《幸運体質》と呼んでいるそれが休日を取ったところなど見た事無いのだが。自分について唯一信じられるものがこの幸運であっただけに首を傾げざるを得ない。
 が、いないものはいない、としてさっぱりした性格である巴はあっさり踵を返した。
 ――刹那。
 六花宅の隣に位置するドアが開かれた。開かれたドアが邪魔で何者がいるのかは分からないが、その人物も今から出掛けるのだろう。

「・・・あぁー!!」

 果たして親友の部屋の隣にはどんな人間が住んでいるのだろうか、そう思い横目でちらりと隣人の姿をチェックした巴は絶叫した。その声に驚いたその人が勢いよく顔を上げる。

「あ・・・あなたは!あの時のイケメンさんじゃないですかっ!!」
「・・・お前は・・・何故、ここに・・・?」
「え!?えっとですね!私、りっちゃんに会いに来たんですけど、留守で」
「りっちゃん?誰だそれは」
「あなたの隣に住んでる人ですよ。六花ちゃんの事です」
「あぁ、あの小娘か・・・」

 名前も知らないこのイケメンに出会うのは二度目だ。一度目は訳も分からないまま高そうな風呂敷を渡された。中身は高そうな饅頭だったが。
 そして――その風呂敷はというと、一応綺麗に洗って部屋に置いてある。返せる目処が立たなかったのでそのままだ。彼が六花宅の隣に住んでいる事はそれとなく聞いて知っていたが、さすがに突撃お宅訪問をする勇気は無かった。

「えっと、あの、この間貰った――」
「返さなくていい」
「え?」
「返す必要など無いと言った。あの風呂敷ごと、くれてやる」
「えぇ!?でも、とーっても高そうでしたよ!?いやいや、お返しします!家がここなら、次来た時にでも」
「気にするな。要らないのならば捨ててしまえ」
「えっ!?えーと・・・じゃあ、ありがたく、受け取ります、はい・・・。ありがとうございます」
「構わん。お前が私に捧げた供物も私自身が食したのだから」
「んん・・・?」

 何を言っているのかちょっとよく分からなかったので、聞き流す事にした。
 それにしても愛想のない人だと思う。さっきからずっと仏頂面だし、何よりまったく笑わない。大笑いしているところは想像出来ないが、それでも多少なりとも微笑んでくれたっていいじゃないか。

「私、本当についてます」
「そうなのか?」
「えぇだって、りっちゃんに会ったら、あなたには会えなかったじゃないですか!私は何て運が良いんでしょう!」
「なっ・・・!?」

 ストレートに想いを伝えると、目に見えて分かる程に彼は狼狽した。目を見開き、理解出来ないものを見る様な目を向けられる。
 しかし、ここであっさりさようならするつもりなど無いのだ。

「あの!私、幸野巴って言います。えーっと、あなたは?」
「・・・古伯」
「へぇ、そうなんですか!古伯さん?んん?姓は・・・いや、聞きたくないですっ!とにかく、よろしくお願いします!」
「また来る、と言っているのか?」
「古伯さんが迷惑じゃなければ」
「・・・そうか、なら、また来い。だいたいいつもここにいる」

 そう言って――確かに彼、古伯は薄く笑みを浮かべた。
 綺麗に無邪気に。

「私、またすぐ来ますね!」

 耳をそばだてる。目を伏せ、自分の心音を聞く。かなり速い。このまま人間が生きて行くぶんの心拍数を超えてしまうかもしれない。

「あぁ、待っている」

 自覚した。
 ――あぁこれは、恋なんだ、って。