05.302号室の結芽さん
全ての部屋をチェックしてみようと考えた時、一番に手を掛ける事と相成ったのは勿論隣の部屋だった。中に『人』は居ないと思うのでノックはスルーして、軽い気持ちでドアを開ける。
スライド式のドアがやけにあっさり開いた。
3階の病室は全て個室。隣室も例外では無く、1人部屋の奥にはトイレと洗面所、そしてベッドと適度な広さの部屋が兼ね備えられている。
直接中を覗いた時、患者の生活が全て丸見えになってしまわないように引かれた真っ白なカーテンが見えた。
女性のシルエットが映っている。その影を見たとき、この部屋が何であったのかを思い出した。
――302号室。樋川結芽の病室であり、タイムリーな話題の中心地点。
引き返そう、そう思った瞬間、カーテンがシャッと開け放たれた。この間話をした女性が薄い笑みを浮かべてこちらを見ている。
「こんにちは、ミソギさん」
呆気にとられていると、先に結芽が口を開いた。思わず挨拶を返してしまう。
ただし、ここで一つ気付いた事がある。
樋川結芽は現実のセンターに入院している女性で、氷雨の妹。であれば、彼女は生者であり、自分と同じ境遇の異界に迷い込んだ者という事になるのではないだろうか。彼女と自分は、謂わば同じ異界に取り込まれたという事になる。
「あっ、あの、樋川さん?」
「ええ。樋川さんだなんて、そんな。結芽と呼んでくれて結構よ。いいえ、結芽と呼んで欲しいわ」
「はあ……。まあ、それは良いんですけど……。私、センターで寝泊まりしている間に異界に入り込んでしまったみたいで。多分、樋川――結芽さんも、そうですよね?」
いまいちキャラが掴みづらい女性だが、こちらの話にはきちんと耳を傾けてくれる。質問を正しく理解したらしい彼女は「ええ」、と何故か楽しげに頷いた。
「私もいつも通り生活をしていたのだけれど、いやに静かになったと思ったら、急にあなたが部屋へやって来たのよ。何か起きているのかしら?」
「ああそうか、結芽さんは一般人ですもんね。えーっと、多分この場所は危険なので、救援が来るまで私と一緒に解決法でも捜しますか? その、私も一人は怖いし……」
提案に対し、結芽は少しばかり興奮気味に――非常に嬉しそうに、返事をする。何故こうも恐怖を覚えていないのだろうか。とても一般人とは思えないメンタリティと言える。
「私も一人では心細かったの。ミソギさんさえ良ければ、一緒に連れて行ってね。少しだけ移動する速度が遅いけれど、大丈夫?」
「え、ああ、はい。勿論」
どのくらい遅いのだろうか。彼女が立って歩いている所は見た事が無い。
すると、結芽はゆっくりとベッドから床へ足を出す。そういえば、彼女が履くための靴が見当たらない。
「結芽さん、靴は? 裸足じゃ寒いでしょう」
「ああ、ごめんなさいね。申し訳無いのだけれど、そっちの棚の奥に入っているスニーカーを出して貰ってもいい?」
「あ、はい。開けますね」
勝手に人の棚を漁るのも問題かと思い、一応断りを入れて棚を開ける。異界なので、最悪棚の中が空っぽの可能性もあった。が、意外にも所狭しと結芽の私物が並んでいる。その中から綺麗に揃えられたパンプスを取り出した。スニーカーの姿は影も形も見えなかったからだ。
取り出した靴を揃えて置き、結芽の次の動きを見守る。
「ありがとう、ミソギさん」
ベッドから立ち上がる動きがぎこちない。まさかとは思うが、あまり歩くのが得意ではないのだろうか。
覚束ない動きに思わず手を差し伸べる。除霊師達は助け合いが肝。毎日毎日そういう生活を送っていると、動けない仲間などに手を差し伸べるのは当然になってくるのだ。
「こっち、掴まって下さい。危ないですよ、足下。結構、ベッドが高い位置にあるので――」
「優しいのね」
「……こんなの、人として当然の事ですよ」
何故か不意に雨が降りしきる、そのぎ公園を思い出した。あの光景を思い出す度、自分が「優しい人物」とは縁の無い人間である事を思い知らされるかのようだ。
支度をしている結芽に、現状についての情報を集めるべく質問する。
「ここに居る理由をまずは考えているんですが――あ、異界ってやっぱり出る為にたくさん情報が居るんですよ。もし、何か思い当たる事があるなら何でも良いので私に教えてくれませんか?」
「えぇっと、私は何をあなたに話せば良いの?」
「うーん、センターで変な事とか現象とか。起こったのを見た事がありますか?」
「そうね……。私はあまり、自分の部屋から出られないのよ。見舞いに来てくれる親族もあまり居ないし、滅多に部屋から出ないから分からないわ」
――そうか、結芽さんってあまりセンター内も歩かない人なのか……。うーん、もう自分の足で手掛かりを探すしか無いか。だったら、センターから外に出られるのかも検証しなきゃ。
ようやっと、結芽が靴を履き終わった。