05.樋川結芽
近付けば近付く程分かる。
彼女はやっぱり知り合いではないし、自分の事を知っているとしたら氷雨経由だろう。彼の妹だったはずだ、彼女は。名前は何と言っただろうか。聞かされていない気がするが――
手招きをしていた彼女は微笑んでいる。とても機嫌が良い事が窺える、朗らかな顔つきだ。何となく気概を加えてくるような人物には見えず、肩の力を抜く。
一方で警戒心という言葉を持ち合わせていない南雲は、まるで旧知の友でもあるかのように気安く片手を挙げた。
「どーも、俺達に何か用事っすか?」
――何て奴だ、初対面の相手に……!!
結構前から馴れ馴れしい奴だとは思っていたが、いざという時の大胆さは群を抜いていると言える。恐々とそれを見守っていると、彼女の視線は南雲を通り越してミソギへと向けられた。
「こんにちは」
「え、あ、ああ。どうも、こんにちは」
「良い天気ね、ミソギさん」
「あれ、何で私の事を知って……」
まさかの知り合いかと思ったが、彼女の次の言葉で違うのだとすぐに思い至る。
「私は樋川結芽。ミソギさんと顔を合わせるのは初めてよ。ミソギさん、隣の部屋の患者さんとよくお話していたでしょう?」
声が筒抜けだったと言う訳か。雨宮以外にも蛍火やトキとも話をした記憶がある。ずっと前から雨宮の隣室であったのならば、多少なりとも存在を認知されていて可笑しくはないだろう。
何故か引っ掛かる部分はあるが、無理矢理そう納得して無難な相槌を打つ。自分の事を観察していたらしい彼女はクスクスと綺麗に笑うだけだ。
「ミソギさん、今日はお仕事?」
「えーっと、そうだけど……」
「うふふ、いつも大変そうね」
最初に話し掛けた南雲をスルーし、延々と取り留めの無い会話を繰り広げてくる。仕事中だと伝えたはずなのに、細々と続く会話は終わりが見えなかった。
困惑していると、南雲が見かねたのか助け船を出してくれた。
「先輩、そろそろ仕事に戻りましょうよ。トキ先輩がイライラして待ってると思うっす!」
「あ、そうだね! それじゃあ、樋川さん――」
「私の事は結芽と、そう呼んでね」
思わぬ強い口調に閉口する。ただし、鋭く述べて来た言葉とは裏腹に樋川結芽は恍惚とした表情を浮かべていた。真意が一切読み取れず、身を硬直させる。
精神的な金縛り状態を解いたのは、南雲では無かった。
病院に相応しくない荒々しい足音。次の瞬間、乱暴に病室の扉が開け放たれた。立っていたのは彼女の兄である、同僚の氷雨だ。やや息を切らしているのが見て取れる。
「ひ、氷雨さん? どうしたんですか、そんなに慌てて」
渋い顔をした氷雨その人は周囲の状況を一瞥すると、言葉を選ぶように一瞬だけ黙り、そして口を開く。
「悪い。仕事の話がある。ここはいいから、一度外に出てくれないか」
「もう行ってしまうの?」
「仕事中だ」
妹に対し、冷たくそう応じた氷雨から背を押され、半ば無理矢理病室から外に出される。思わぬアクティブな行動に、南雲でさえ目を白黒させ、されるがままだった。
そのままトキが待っている場所まで戻って来る。不機嫌そうな彼は一層機嫌の悪そうな顔をしていた。
氷雨にとって、トキとはどういう人物という認識があったのだろうか。ミソギを何故か一度スルーした彼は、腕を組んで仁王立ちしているトキへと許可を取る。
「すまないが、一瞬だけミソギを借りていいだろうか。伝える事がある」
「私に席を外せと言うのか?」
思いの外、静かに問い返したトキに対し氷雨は首を縦に振った。一度だけ、凄い形相で彼の事を見たトキが、舌打ちすると南雲を呼ぶ。
「行くぞ。1階のロビーで待っている」
「えっ、そんなあっさり私の事を身売りするの!?」
「早く終わらせろ」
無情にもそう告げたトキが、南雲を率いて視界から消えていくのを呆然と見つめる。何だと言うんだ、一体。
一方でミソギのレンタルに成功した氷雨は安堵の溜息を吐いていた。そんなに恐れおののくような相手ではないのだから、普通に接すれば良いのに。
「……そういえば氷雨さん、私の事をずっと捜していたそうですね」
「ああ。ここはマズい。多目的室に移動するぞ」
「はいはい、分かりましたよ」
話が進まないと思い、氷雨の後に続いた。
多目的室、というのは見舞客などが休憩するのに使ったり、個室では無い患者が電話などをする為の少しばかり広い部屋の事を指す。全フロアに1部屋以上設置されているのだが、流石は入ったら二度と出られないと噂の3階。そこはそれ、人っ子一人居ない状態だった。
何せ、3階にあるのは個室のみ。見舞客も、わざわざここへ来て談笑したりはしないだろう。