2話 テディちゃんの冒険

07.テディちゃん


 麻央の部屋の前へ来た。鍵は上手い事開けておいてくれたらしい。ここまで来る廊下には足下に電灯が置いてあったので真っ暗ではなかったものの、既に心は泣きそうだ。
 ちなみに、ミソギは客間で敷嶋、凛子と寝ず番をやっている事になっている。嘘が雑。

 ――というか。

「何かすでに物音がするような……」

 ごそごそ、という布ズレの音。おかしいな、人払いがされていて無人のはずなのに、部屋から物音が当然のように聞こえて来る。早くもゲンナリとした気分になってきた。

 そうっとドアを少しだけ開けて中を確認する。心臓が激しい音と勢いで脈打っているが、残念な事に逃げ出すという選択肢は無い。月明かりに照らされた部屋の内部、まず確認したのはテディベアが安置してある棚だ。
 ――いない。
 動くはずのない無機物はしかし、忽然と姿を消していた。雨宮とこの部屋に入った時はきっちりと所定の位置に鎮座していたはずなのに。

 雲が掛かったのだろうか。室内が一気に暗くなった。最早どこに何があるのかも判別出来ない。生唾を呑み込みながら、部屋の電気を付ける。ぱちっ、といういやに現実めいた音が響いた。

「ヒィッ……!?」

 上げそうになった悲鳴は珍しい事に呑み込めたようだ。喉元まで出掛かった絶叫を喉奥に封じ込める。

 例のテディベア。綺麗な黄金の毛並みの小さくて愛らしいぬいぐるみは、麻央のベッド付近をゆっくりと徘徊していた。あまり見た目がグロテスクではなかったので、何とか平静を保つ。
 後ろを向いてちょこちょこ歩く様は観ようによっては可愛いではないか――

 が、気配に気付いたのだろう。テディベアが全く唐突に振り返った。電気に反射して輝くそれを見た瞬間、今度こそミソギは叫び声を上げる。

「っぎゃあああああああああッ!! それはヤバイ!! 殺人事件が起きるぅッ!!」

 刃が極限まで出たカッターナイフをその手に持っていたのだ。可愛らしい人形が持つにしてはあまりにも物々しいそれに、職務の遂行も忘れて叫ぶ。
 愛らしい熊のぬいぐるみはころん、と後ろに倒れた。尻餅を着いたまま、ロボットのようにぎこちない動きを繰り返している。昼には動かなかったので、弱い怪異なのかと思っていたが、なかなかどうして強力な怪異らしい。消滅しなかったのがその証拠だ。

「おねえさん、だれ?」
「ひぎゃあああああ!?」

 隙を生じさせぬ二段構え。
 喋った。
 ――もう一度言おう。布で出来ているはずのこのぬいぐるみが、人間の言葉を発した。

 恐ろしくなって後退るも、背後は壁だった。背中がぴったりと壁に密着する。言葉を発したテディベアはしかし、それ以上の動きを見せなかった。死にかけのダンゴムシのように、弱々しく手足を動かしている。
 二度の絶叫が結構刺さっているようだ。

「おねえさんも、あのひとみたいに、ベッドの下に……なにかをおきにきたの?」
「え? 何だって?」
「ぼくのことばがきこえるんだね」
「いやそうじゃなくて、ワンモア! 今なんかとっても重要な事言わなかった?」

 何が楽しくて怪異と面と向かって会話の真似事しているのか。そう思いはしたが、小さな子供と話をしているような気分になってしまい、ついつい言葉に応じる。こうやってまともに怪異と話をしたのは七不思議事件以降、初めてかもしれない。
 ともあれ、熊はミソギの問いに答えた。

「ぴしっとしたかっこうのおじさんが、麻央ちゃんとぼくの部屋に、へんあおきものをおいていったんだ」
「それはもしかして、祠みたいなやつ?」
「うん。どうにかして、そとにもっていこうとしたんだけど……なくなっちゃった」

 そりゃそうだ。それは昼の間に雨宮と撤去したのだから。敷嶋も言っていた事だが、この怪異と呪具は関係無いのだろうか。少なくとも、このぬいぐるみは何かの呪具には見えない。

 しかし――このぬいぐるみは、謂わば怪異だ。その言葉を鵜呑みにしてもいいのだろうか。

「……えぇっと、熊さんは麻央ちゃんの事をどう思っているのかな?」
「麻央ちゃんはぼくのともだちだよ。まいにち、ぼくの毛をすいてくれるんだ!」
「そうなんだ。仲良しってこと?」
「うん、そうだよ。ぼくと麻央ちゃんはともだちだって、麻央ちゃんがいってた」

 ――持ち主に恨み辛みを持っているようには見えない。
 やはり、ベッド下の呪具とこのテディベアは全くの別物だ。ならば、あの呪具は一体誰が設置したのだろうか?
 敷嶋が篠田を警戒するように言っていた事実を思い出す。そういえば、彼は最初から執事を疑って掛かっていた。それが答え?

 あの呪具は近くに居る人間を徐々に衰弱させ、やがては衰弱死させる凶悪な呪いを孕んだ道具だった。
 つまり、殺人未遂事件がこの部屋で起こっていた事になる。人を殺そうと思っていた人間が居るという事だ。
 怪異と出会った時とはまた別の、生々しい人間に対する恐怖心が頭を持ち上げる。それと同時に、廊下を走ってくる音を耳が拾った。ぎょっとして息を潜める。もし、殺人を犯そうとしていた、誰かだったら――

「おい、何事だ!」
「し、敷嶋さん……!! ってヒエッ!?」

 そういえばすっかり忘れていたが、毎日のノルマである1絶叫を達成していたのだった。血相を変えて飛んで来てくれたらしい敷嶋は、その手に警棒のようなものを持っている。全く似合わないし、強面の彼が持つと凶悪犯罪者にしか見えない。
 そんな彼は、室内を見回して眉根を寄せた。彼の目には恐々とした顔のレンタル除霊師と、仰向けに倒れたまま手足をばたつかせているテディベアが写っている事だろう。意味不明だと思う。