1話 アメノミヤ奇譚・上

07.アメノミヤ奇譚


 視界が悪い中、周囲に注意しながらゆっくりと歩を進める。
 どこか雨を凌げる場所――とは思ったし、最悪大きな木の下でも何でも良いと心の中で思ったのは事実だ。だが、そんな思いに反して、見つけた『雨の凌げる場所』はなかなかリスキーな物件だった。

「これは……」

 滅びて所々床板は腐り、更には日の当たらない部分は苔むしている――祠。人など簡単に入れるサイズではあるので、最早小屋と言っても差し支え無いだろう。
 しかし、これが本当に祠であるのならば人間の立ち入ってはならない領域だ。先住民がいるかもしれない。こういう、人間の信仰の象徴みたいな場所は運が良ければ心強い味方にもなるし、全く真逆の可能性も秘めている。

「雨宮……」

 どうにか目を醒まさないかと呼び掛けてみるが、彼女は身動ぎ一つしない。もう一瞬だけ迷った十束は意を決して祠へと足を向けた。

 床が抜けないよう、細心の注意を払いながら中へ入る。幸い、天井に致命的な穴は空いていないようで湿ってはいるが濡れてはいない空間の確保に成功した。先住民の姿は無い。
 比較的乾いている床部分に雨宮を寝かせ、彼女が背負っていたリュックサックを漁る。タオルが入っていると聞いていたが、首に掛けられるタオルが3枚も出て来た。準備が入念過ぎる。

「十束?」
「あ、起きたか! このまま気を失ったままだったらどうしようかと思ったぞ」
「うーん……。気分がとてつもなく悪いよ。うっぷ……」
「顔色が悪いな。少し休もう」
「ああ、悪いね」

 ゆっくりと身を起こした雨宮はグロッキーな顔のまま自らのリュックを漁り、水を取り出した。それをゆっくりと飲み下しながら、状況を尋ねてくる。

「えぇっと? ここは?」
「いや、お前が目を醒まさないから、雨を凌げる場所に避難しようと思って。あまり不安を煽るような事は言いたくないが、祠のような小屋の中だ」
「ああそうなんだ。長居はしたくないな」
「気にするな、俺も疲れたし体力を回復してから出よう。雨っていう天気も悪い」
「ちなみに、地図で言うとここはどの辺かな?」
「いや、悪い。山側に逃げてしまったようだ」
「そっか……。ミソギ達は見つかっていないんだね?」
「そういえば姿を見掛けないな」

 ゆっくりと内部を見回す。雨音とは違う、水の滴る音が聞こえた気がしたのだ。一瞬だけ先程の怪異の姿が脳裏を過ぎるも、そういう禍々しさとは無縁の――清廉とした、清い水の気配。
 それの正体はすぐに分かった。入り口とは反対側、祠奥。大きな青銅色の杯のような物が設置されていた。丁度杯の真上の天井部分が丸くくり抜かれており、杯の中へと止めどなく雨水が降り注いでいる。雨によって溜まった水に水紋が浮かんでいるが、それでも何故か杯の水は曇り空を美しく写し出していた。
 そのどことなく不思議で神秘的な光景をぼんやりと見つめていると、タオルで髪を拭っていた雨宮が不意に口を開く。

「そういえば、倒れている間に酷い夢を視たよ」
「夢?」
「夢、というか霊障の類だったのかもしれないけれど。あの怪異に触れられた瞬間、気付いたら池の底みたいな場所にいたんだ」
「それは、お前がか?」
「そうそう。すぐに夢だって気付いたのだけれど、本当に苦しくて。このまま池のもっと奥底に沈んで行くんじゃないか――と、思ったら目が覚めたんだ」
「何だかエグい夢だなあ。というか、あの1体だけ毛色が違うと思うのは俺だけか?」
「集団で襲い掛かって来た怪異と、アレは別物じゃないかな。あのコモンズもかなり厄介ではあったけれど、水溜まりから出て来た怪異は別格だね。ミソギの絶叫でも身動ぎ一つしないだろう」

 ――カタン。
 何かが床を踏む微かな音。弾かれたように顔を上げた十束は絶句した。

「うっ……。居場所を嗅ぎ付けられたか」

 雨宮がコモンズと称した集団型の怪異。見えている範囲だけで3体。とてもじゃないが相手をしていられる数ではない。手の打ちようが無いという一点においては二種居る怪異のどちらも同じだ。

「雨宮、立てるか!? ここから出て、走り抜けよう!」
「あ、ああ」

 何故か不安そうな顔をした彼女はリュックを片手に持ち、立ち上がった。しかし、すぐ前のめりに倒れ、両手を床に着く。
 それを目の当たりにすれば何故今、彼女が不安そうな顔をしたのかすぐに理解出来た。具合が悪いとかいうレベルではなく、今の彼女に怪異から逃げられるだけの体力は遺されていない。

「あ、雨宮、背に――」

 乗れ、と言い掛けてその言葉は出て来なかった。
 本当に彼女も連れて逃げられるだろうか? 自分だって体力は底を突いているし、一度下ろした大荷物を背負う辛さと言ったら言葉では表せないだろう。休めると思った矢先に襲撃してきた怪異も間が悪かった。
 いやそもそも、人一人を背負ってこの包囲されている状態から逃げ出せるのか。答えは否、絶対に無理。フットワークさえあれば目の前の怪異を捲くのは容易いが、そのフットワークが無ければ厳しいどころではない。

「十束」
「あ。ああ、すまん。ボーッとしていた。逃げよう」
「――いや、私の事は置いて行った方が良い。君だって分かってるだろう? あの数だ、私を背負ったままじゃとても逃げられないよ」
「い、いやいや! 置いて行ける訳ないだろう!?」
「全滅する気かい? 勿論、私だって怪異の餌食になんかなりたくは無いさ。でも、君が走って出て行ってトキかミソギか、応援を連れて来てくれた方が建設的だよ」

 見透かされている気がする。今、ボーッとしていたと出任せを言った瞬間に何を考えていたのかを。
 何かを伺うかのように、雨宮の表情を盗み見る。
 ――目が、合った。

「十束、私の事は、置いて行って」

 何とも浅ましい事に。彼女の双眸の中に自分を詰るような感情の類は無い事を確かめた上で。弾かれたように十束は立ち上がった。

「……分かった、すぐに戻る」
「いや、一人では戻って来ないでおくれよ」

 もう一度だけ仲間の方を振り返り、駆け出す。走り出した足は予想していたより遥かに軽かった。