4話 体育館のボール

09.火の臭い


 トキの睨み付けるような視線を一身に受けながらも特に怯えた様子も――どころか、若干興奮した様子で紫門が口を開く。

「良い案は無いね。悪いが、『開かずの間』は君に頼んでもいいかい?」
「最初からそう言っている!!」
「ああうん、まあ、そうなのだけれど」

 案の定、アプリを一切開かず苛々と事の成り行きを見守っていたトキは紫門の気まずそうな顔に気付かない。彼に相手の顔色を読み解くような高等テクニックは使えない事だろう。
 しかし、このまま先輩を一人で行かせて良いものか。南雲は堪らず口を挟んだ。

「それなんすけど! 俺、同行します!」
「はァ? 体育館のボール如きで怯えていたお前がか? 足手まといだ、引っ込んでいろ」
「いやでも、俺も特定条件ってやつ? 満たしてるし、先輩一人で行くより良くないすか?」

 いや行かないでくれ、と紫門に大真面目な、と言うより引いたような顔でそう提言された。

「君の言動を見るに、室内でいきなり半狂乱になってもおかしくはない。何の勇気を出して来たのかは分からないが、君が行くくらいならカミツレちゃんに頼んだ方が建設的だよ」
「言い過ぎっしょ! さ、流石に俺もそこまで馬鹿じゃ……人の命が懸かってるかもしれねぇのに」

 そうね、とカミツレが肩を竦める。

「あたしは今合流したからよく分からないけれど、貴方の代わりにあたしが行けばいいの? 戻って来なかったら、浅日の事はお願いする事になるけれど」
「だから! 邪魔だと言っている! 私が行くから! そこで! 黙って待っていろッ!」
「そこまで言うのならお言葉に甘えさせて貰うけれど……」

 いいか、と威嚇するようにトキが呻る。

「10分だ。それで戻って来なければ、アカリに水先案内を頼み、大鏡へ先に行け! 私がここに入ってしまいさえすれば、単独行動者はあの馬鹿だけだ」
「おや、いいのかい?」
「仕方ないな。どうしようもないものは、どうしようもない。紫門、お前の言いたい事は分かる。ここに人員を割きたくない理由もな! それに妥協すると言っているんだ」
「……いやあ、変な所で鋭いよね。トキくん。じゃあ、10分は待つよ。出来ればミソギちゃんは引っ張って来て欲しいな。現状のメインウェポンだし」

 片手を挙げて応じたトキが、躊躇い無く『開かずの間』であるはずの戸を引く。半分くらい開いていたそれは、トキが悠々と通る事が出来る程度開かれた。
 踏み出しかけたその足が止まる。
 ほぼ同時に、カミツレが顔をしかめて絞り出すような声を上げた。しかし、南雲は彼女の言わんとする事を理解している。彼女と同様にその中に蠢くモノが視えるからだ。

「ちょっと待って! それは無謀だわ……」
「ひぎゃっ!? う、うわあ……。朝一で混んでる電車より混んでねぇっすか? 流石にそこに飛び込むのはちょっと。というか、ミソギ先輩、います?」
「ミソギはいるわね、部屋の奥の奥に。ウッ、何か寒気が……」

 まさに人間のすし詰め状態。とはいえ、生者ではなく死者が詰められた箱のような教室なので視えない者には一切視えない事だろう。ついでに、それを知覚した瞬間、何かが焦げたような匂いが掠める。
 流石に視えていないらしいトキも何か感じ入るものがあるのか、顔をしかめて立ち尽くしていた。猪突猛進に中へ入って行かないにあたり、素晴らしく禍々しい障気そのものは知覚出来ているのだろうか。どちらにせよ、断言出来る。
 ――こんなの、大抵の人間は一度入ったら自力で脱出するのは無理。

 睡眠ガスが室内に密封されているとして。そこから、何の備えも無く抜け出す事が可能だろうか? 答えは否。ガスマスクなり何なり、対策が必要でありそこに根性論は通用しない。

 紫門が眉根を寄せる。

「何だか中がよく見えないな。ライトは――光が吸収されているのかな? 禍々しい気配だ、ゾクゾクしてしまうよっ! やっぱり、ボクが行って来ようかな!?」
「ええい、煩いぞ。一度決めた事を覆すな、鬱陶しい!」
「先輩先輩、ちょっと一旦ストップしましょう!? これ絶対にヤバイやつ! というか、アンタ等教室の中にいる先住民の方々とか視えてねぇ感じなんすね」
「先住民……?」

 困ったな、とトキの肩に手を掛けて待ったしている紫門が顎に手を当てる。視えはしないが、自分とカミツレの言葉を信じてはくれるらしい。

「カミツレちゃん、南雲くん、他に気付いた事はあるかな? ボク達には視えないようだし、浮遊霊の集合体? 困るんだよね、そういうのってバラせば烏合の衆でよく視えないし」
「体育館に居た奴等と似てる気はするっす。でも、こう、禍々しさが段違いっていうか……」
「何か焦げ臭いですね。何だろう、燃やしてはいけない物を燃やした後のような。化学物質とか分泌されていそうな臭いです」
「もう一声!」
「端的に言って、あたしはこの光景から火事を連想します」
「オーケー、そういう感じか」

 嫌がる事はするよりされる方が好きなんだけどなあ、とは言いつつも恍惚とした表情の紫門がポケットから長方形の小さな箱を取り出した。それが何であるのかを認識して、目を剥く。

「あ、アンタそれマッチじゃ――」
「水道あるだろう? 水を汲んでおいてくれ。まあ、恐らくは必要ないけれど」

 流石は中学校。廊下、教室の前に水道がある。掃除用だろうか。ブリキのバケツも完備。それにしたって火遊びをしていい理由にはならないが。
 グルルル、と待ったを掛けられている猛獣が呻った。トキの我慢も大分限界らしい。しかし、薄氷のような笑みを浮かべた紫門がマッチを1本取り出しながら囁くように言う。

「ボクが火の着いたマッチを教室へ投げ入れる。君はその瞬間にミソギちゃんを部屋から連れ出してくれ。こんな小さな火では、一瞬くらいしか時間なんて稼げないだろうしね」
「……分かった」

 紫門がどこか慣れた手つきでマッチを擦った。僅かな光が漏れる。
 指と指の間に挟まっていたマッチが、回転しながら教室の中に投げ入れられた。その光を――否、火を恐れるかのようにマッチの周囲から哀れな浮遊霊達が金切り声のようなものを上げて遠ざかる。
 その悲鳴自体は紫門には聞こえていたのだろう。恍惚としていたはずの表情が一瞬だけ完全に無になる。

 一方で滑らかなスタートダッシュを切ったトキは禍々しい障気が割れた事によりすぐにミソギを発見した。床に膝を突いて斜め下を眺めている彼女の腕を引っ掴み、無理矢理立たせ、教室の外へ。一連の動作を1分の半分くらいでやってのける仕事の速さ。本当に見事だ。

「うわ、流石トキ先輩! 痺れるぅ!」
「ふん、当然だ」

 鼻を鳴らしたトキはミソギを廊下に放り出した。立ち上がるでもなく彼女はぼんやりと床を見つめ、意味不明な独り言を漏らしている。正直、あまり無事とは言えないし障気ではなさそうだ。

「おい……、おい! ……駄目だな。何か憑いているのかもしれん」

 ミソギの目の前で手を振ったり、手を叩いたりと様々なアクションを試したトキが溜息を吐く。ただし、その吐き出した息の中には多少なりとも安堵が混ざっているようだった。
 霊感だけはあると豪語するカミツレがミソギに近付き、その双眸を覗き込む。偏型はややって静かに首を横に振った。

「何か憑いているのは分かるわ。けれど、あたしにそれ以上の事は出来ないわね。素直に早くここから抜け出して、霊障センターに連れて行った方が良いと思う」
「そうか」
「落ち着きを取り戻したわね、トキ。良いの?」
「良いも悪いもあるか。無事だったのなら、後はどうとでもなる。今やるべき事をやるだけだ」
「あ、そう」

 次の目的地である大鏡へ向かう事に決めたらしい一同を尻目に、南雲はミソギを半ば無理矢理立たせた。一度立ってしまえば座り込むこと無く、腕を引かれるままに着いてくる。が、ぶつぶつと漏れ出ている独り言がぶっちゃけチビりそうな程怖い。