第1話

07.


 どのくらい経っただろうか。不意にテューネがこう溢した。

「あーあ、何かタマちゃんってアタシ等とノリ似てるっていうか、良い思い出になったわー」
「ホントそれな。カモミールも捨てたもんじゃねぇってちょっとだけ思ったわ!」
「え?引っ越しでもするんですか?」

 一瞬だけあんなに騒がしかった二人が黙った。瞬き程度の沈黙ではあったが、何かいけない地雷を踏み抜いた気がする。
 しかし見た目の割に寛容なヨアヒムは可笑しそうに、含んだように笑みを溢した。

「いやさ、タマちゃんの言う通り、俺等引っ越すんだわ」
「そーそー。村なんてのは後から来て住み着くもんじゃないって学習させられたし」
「マジ連帯意識強すぎな。これは流石の俺等も馴染めない!」
「ってか、アレじゃん?アタシ等とアイツ等じゃ価値観違い過ぎ的な?」
「相容れないよな、ホント。互いに嫌悪感しか抱けない間柄だったわー」

 カモミール村は彼等が馴染める環境では無かったらしい。近所付き合いなど薄れつつある擦れた現代っ子の自分には想像も付かない引っ越し理由だが。そもそも、精々隣近所ぐらいの付き合いしかないし。
 あとさぁ、とテューネがグッと身を乗り出して声を潜めた。

「もう出て行くから言っちゃうけどぉ、タマちゃんも早くこの村、出た方が良いよ?取り返しの付かない事になる前にさ」
「えっ、何その恐い忠告……!」
「村八分なんてされたら恐いから、今まで教えた事無かったけど、この村マジヤバイから」

 でさぁ、と最初のテンションに戻ったテューネ達の会話を聞き流しながら、今の言葉を反芻する。いまいちピンと来ないが、この村にいると何か危険な事でもあるのだろうか。
 ともあれ、明日、朝にでもイーヴァ達にこの情報を伝えよう。

 ***

 柔らかな光が目蓋の上から差し込んでいるのが分かる。
 鳥の囀り、という爽やかな朝を迎えた珠希は「あー」、と地獄を這いずる亡者のような声を上げた。
 どうやら昨日はロビーで寝落ちしてしまったようだが、ここは自室のようだ。見慣れた制服がハンガーに掛けられているのが分かる。
 そして――言うまでも無く、寝て起きたらこの不思議な世界。つまり、昨日までは希望観測で語れた『夢オチ』という現実は跡形もなく消え去り、ただの妄想と成り果ててしまったのだ。
 備え付けのブラシを手に取り、髪を梳く。
 顔を洗い、制服に着替えた珠希は朝食を摂るべくロビーへと下りて行った。学校へ行くまでのルーチンワークと何ら変わらないのに、広がっているのが宿の風景で酷くホームシックな気分になってくる。

「おはよー」
「おはよう、珠希。何だか眠そうだね」
「うん、昨日寝る前に色々あって」

 食卓には自分以外の全員が揃っていた。朝が早い事で。
 休日出勤だった珠希はイーヴァの隣に腰掛けると、篭に敷き詰められたバターブレットを一つ手に取った。丁寧にマーガリンまで置いてある。
 白湯を飲んでいたフェイロンがやや咎めるような声を上げた。

「色々あった、というかお主等は煩すぎる。何時だと思っているのだ、ロビーでぎゃあぎゃあと騒いで。三歳児かと思うたぞ」
「えっ、そんなに煩かった?さすがに上の階まで声が聞こえてたとは思わないんだけど」
「目と耳は良いのだよ、人間のそれよりな」
「耳栓して寝ればいいのに……」
「それで、えーと、スプーン曲げ?とやらを俺にもやって見せよ」

 ――わーお、驚きの聴覚だなあ。
 そこまで詳細に昨日のやり取りが伝わっていたとは。ちら、とフェイロンの顔色を伺うと心なしか薄く小馬鹿にしている印象を受ける。まさかとは思うが、自己紹介の件も聞いていたとか?レンガの角で頭を殴打したら昨日の記憶とか消えてくれないかな。
 スプーン曲げの話題に食いついたのは言うまでも無くロイだった。低血圧なのか、ボンヤリしていた顔から一変、昨日初めて会った時のようなテンションにまで昇り詰める。

「何だそれ、面白そう!ちょっとやって見せてくれよ!!」
「昨日に引き続き、反応が獲れ立て魚介類くらい新鮮で驚きだよ」
「スプーン行けるならフォークも行ける!って事でこれ貸すよ!」
「ロイ。それはフォークじゃなくてバターナイフ。しかも、あなたのじゃない」

 イーヴァの尤もすぎる言葉はしかし、ロイには届かない。というか、イーヴァの自己主張が悲しいくらいに控え目だ。もっと気合いを入れてこの暴走機関車を止めてはくれないか。

「――っていうか、曲げたら戻せないから無理。宿屋の人に謝って新しいバターナイフ買って来るって言うならするけど?」
「大丈夫!ぶっちゃけバターナイフくらいなら俺の握力で元に戻せる!」
「じゃあ自力で捻るなり曲げるなりすれば……?」

 この後、昨日のヨアヒム達とのやり取りがそのまま再現される事となった。
 魔法だの何だの言うくせに、スプーン曲げが妙に人気なのは意外である。使い道、宴会芸くらいしか無いけれど。
 話が終わったのを見計らってか、朝からパンを4つも平らげたダリルが不意に尋ねた。

「みんなは今日は何をして過ごすの?」
「――あ!今日は、で思い出したんだけど、昨日、ヨアヒムさん達から早くこの村は出た方が良いっていう謎の忠告されたんだった」
「そういうのってあまり大きな声で言わない方がいいんじゃないかい?」

 そうだね、と少し不安そうな顔をしたイーヴァが首を振る。

「今日までは宿を取っているから、明日には村を出よう。それでいい、ロイ?」
「おう!いいぜ!正直言うと、今日は俺も特にやる事無いし!つーか、何で早く出た方が良いんだろな?みんな良い奴ばっかなのに」
「村というのは小さな共同体だ。そこに余所者である我々が長居するのは良く無いのではないか?その、ヨアヒムとやらの言葉の意図までは分からんが」

 よーし、とロイが元気よく立ち上がった。

「よっしゃ、ダリル、外で手合わせしようぜ!食後の運動しないと!」
「え、朝っぱらから?じゃあ俺、午後は部屋で寝て過ごすけど良いよね?」
「ダリルは昼ご飯食べないのか?食べたら運動!これ大事だぞ!」
「えぇ……おじさんにはその理論、辛いんだけど」

 何やかんや言いつつ、ダリルはロイについてロビーを出て行ってしまった。手合わせとか何の手合わせをするのだろうか。
 ややあって、イーヴァも席を立つ。

「迷惑にならないように、ロイ達を見て来る」
「放って置けばよいものを。自ら苦労を背負い込むのは主の性なのか?」
「うん。別にやる事も無いからね」

 流れるように人が去って行った。一緒にお暇したかったが、残念な事に皿にはまだ食べかけのパンが乗っている。

「フェイロンは外に遊びに行かないの?」
「よい。カモミールには魔女騒動の時に何度か来たからな。村の風景そのものは変わっておらぬが、やはり人間の村か。知らぬ顔しかいなくなってしまったな」
「……えーと、お幾つなんですかねぇ」
「300……ううむ、328年くらい生きておるかな」

 左右でアンバランスな角の、小さい方を撫でながらフェイロンはそう答えた。それが本当なら、彼だけでメンバーの平均年齢を爆上げしている事になる。
 下らない事を考えていると、今度はフェイロンの方が尋ねてきた。

「そういえば、結局その『地球』とやらはどんな所だったのだ?」
「えー、どんな所って言っても。あー、テレビとかいうのがあって退屈しなかったし、移動は車だから楽ちん。村は……私の家の周りには無かったかなあ。こことは全然雰囲気が違う場所だよ」
「全然違う……か。そういえば、アストリティアについての知識はあるのか?」
「ジェットコースターとかメリーゴーランドとか置いてそうな場所の名前だね」
「そうか、知らぬか」

 何か思案するように黙り込んだフェイロンは食べ終わって席を立とうとする珠希を引き留めた。

「え、何」
「何、ではないわ。不安にさせるような事を言うべきではないと分かっているのだがな、そう簡単に元の世界へ帰れるとは思えぬ。世界構造くらい俺が説明してやるから、もう一度座れ」
「ちょ、そんなに帰るの難しいの!?」
「良いから聞け」

 言いながらフェイロンが机の端に設置されていたメモ用紙を一枚切り取る。ペンが無いと思ったが彼は意に介した様子も無く白い紙に指で大きく円を描いた。不思議な事に、指で撫でた部分が黒く焦げ付いている。
 呆気にとられてその光景を眺めていると、頭上から社会の教師に似たような声が降って来た。

「アストリティアは複合型の世界だ。今居るここ、アーティアを含む4つの異なる世界を併せて1つの世界。人間の魔法研究科、グレイスによるとこの4つの世界は壁に区切られているだけで、その実は全て繋がっているらしいな。が、ドレスディアによると全ての世界が離れ小島のように浮かんでいるらしいが」
「せんせー、眠くなってきましたー」
「黙らっしゃい。今の主に4つの世界の特徴を説明したところで寝耳に水なのは明白だからな。取り敢えずアーティアについて知って貰わねば先に進まぬ。このアーティアは基礎世界と呼ばれる、「どんな種族でも住む事が可能な」世界だ」
「他の所は住めない種族がいるの?」
「うむ。俺の故郷であるアグリアは人間が行けば3日で脳が溶ける」
「こっわ!どうなってんの、それ!」
「まあ、それは良い。主がアグリアへ行く予定は今後も無いだろうからな。それで、今のアーティアの現状だが、人間以外の種族が入り乱れて、手の着けようが無い状況に陥っておる。故に、主のような世界単位迷子ももしかすると他におるかもしれんな。それに、アーティアは他世界へ行く為の中継地でもある。主の事を知っている者がひょっとしたらいるかもしれぬな」

 アグリアが恐ろし過ぎて眠気が吹き飛んだ。そうか、考え無しに「そこが私の故郷です!」などと言おうものなら危険なのか。
 しかし、知人と出会う可能性は全くないだろう。
 何せ、自分が住んでいる場所は魔法や異種族だ何だなんて、完全にファンタジーの世界。つまりはフィクションだ。そんな場所へ行っただなんて、今まで聞いた事も無い。
 分かっていた事だが、やはり簡単には帰宅出来ないという事実が殊の外気持ちを重くする。自分が現在、家でどういう扱いになっているのかは知らないが、行方不明なんて事になっていたら方々に迷惑を掛けている上、家族まで心配させているだろう。
 ――あれ、でも、そういえば私は車に轢かれたんだった。もしかして、死んでる?

「……外に散歩にでも行って来ようかな」
「そうさな、昼食までには戻って来るといい」

 浮かんだ不吉な考えを打ち消すように、珠希は踵を返して外へ飛び出して行った。