10.難易度の変動
意気揚々とベティが手に持った剣を最後の1体に向ける。しかし、そこで事態が急変した。
怒りを露わに、牙を剥き出しにして怒りの声を上げていた魔狼が唐突にその動きを止めて明後日の方向を見やる。そして、次の瞬間には情けない声を上げて尻尾を巻き、駆け出して行った。
走る速度は完全に人間のそれを超越しており、あっと言う間に見えなくなってしまう。
それを呆然と見送ったデレクが首を傾げた。
「何だ? 何で逃げて行ったんだ?」
「ええ? 私達に勝てないって悟ったんじゃないの?」
朗らかにそう言うベティは何故か胸を張っている。しかし、私としては全く安心出来る状況では無かった。
この感じ――何か不穏な事が起こる前触れ、サツギルをプレイしていた時は「またか」と言って溜息を吐いていたのを思い出す。これは、恐らく難易度の変更イベントの前兆だ。
「ねえ、私達もここから離れた方が良いんじゃ無い? 凄く嫌な予感がするし……!!」
今の状況で魔狼より強い魔物が現れたらそうなるか分かったものではない。私は慌てて2人にそう進言した。
が、その言葉は少しばかり遅かったようだ。
ズシン、ズシン、と太鼓を近くで叩かれたかのような腹に響く音が聞こえる。一定のリズムを刻んでいる事からして、それは足音だ。しかも、タイミングが僅かにズレて2つ。何か大きな生物が2体居るのだろうか?
「これは……何か向かって来ているんじゃないか!? ベティ、シキミ、危ないから固まっているんだ!」
「ええええ、ここ、王都の近くじゃん。そんな巨大な魔物、いるはずが無いだろ……」
デレクの元へ駆け寄って戻って行ったベティは、言葉とは裏腹に顔を青くしている。
「逃げ出すべきか?」
「どんなのが追って来るのか分からなきゃ、逃げようがないでしょ」
デレクとベティの言葉を黙って聞く。ゲームなら逃げる一択だが、ここは現実。コマンド一つでその場から逃げ出せる訳ではない上、ベティの言う通り逃げ方というものがある。
現実問題、「逃げなければならない」という事は分かる。しかし、「どういう風に逃げれば良いのか」は分からない。なのでそれに関してはデレクとベティの判断に従うしかないのだ。
ただ、逃げ方を思案している時間は残念ながら残されていなかった。
先程魔狼が出て来た道から不意にそれが姿を現す。初めて見る魔物ではないが、現状において出会すはずが無いもの。
一言で言い表すなら直立した牛。二足歩行の牛だ。足音の通り2体いて、片方は赤毛。片方は黒毛となっている。赤毛の牛はその手に金棒を、黒毛の牛は大きな斧をそれぞれ持っていた。
「アッ、これめっちゃ強いヤツ!!」
魔物、タウロス。デフォルトのレベルで35はある。レベル35、今居る全員のレベルを足しても明らかにレベルが不足している。
もうその堂々とした挙動、謎の余裕を見て強い魔物だとすぐに気付いたのか、デレクは即決を下した。
「逃げ方がどうこう言ってる場合じゃない、とにかく逃げるぞ! これには勝てない」
「ああ! シキミ、走るぞ!」
「分かった!」
慌ててベティの背を追う。2人は軽やかに茂みを越え、時には突き出した枝を躱し、草原を駆け抜ける鹿のように俊敏に駆けて行く。
一方で私はと言うと、ここに来てモブとメインキャラの違いについて突きつけられていた。とにかく運動不足なのか、ことある毎に転倒しそうになり、枝には頭から突っ込んで引っ掻き傷を作る。
これはまさに高校時代の私。帰宅部を謳歌し、サツギルに青春を捧げていた運動不足学生の動きだ。分かってはいたが絶望感が拭えない。
しかも動きの遅い私に合わせるように、ベティとデレクはたまに歩を止めて待っていてくれる。いい人達なのだが、もう置いて行って良いですと申し訳なさで一杯だ。
「シキミ、もう少しで林の出口だ! あとちょっと頑張ってくれ!」
「そうだぞ、シキミ! あんなのと戦ったらヒューマンミンチになっちゃうぞ!」
あれだけ走ってもそこそこ元気なベティ達がわやわやと応援してくれる。足は棒のようだし、息切れと動悸、キツケも止まらないが私は走った。
少しだけ背後を振り返る。タウロスは2体1セットなので、ピッタリ完璧にシンクロして追いかけて来ている。速度はそれ程でも無いが、あれは強者の余裕に他ならないだろう。足の遅い獲物を追いかけて楽しんでいるのだ。
「追い付かれるな。ベティ、俺は妨害してみるよ。シキミを支えてやってくれ」
「オッケー、了解!」
言うが早いか、デレクは手の平をタウロスに向けた。この構えは――魔法を放つつもりか。流石に近接戦を仕掛けるつもりは無いらしい。
数秒程で完成した小さな術式から、氷の塊が生成される。それは一直線にタウロスへと飛んで行った。先程私が使った魔法と同じなら、着弾と同時に周囲を凍り付かせる魔法だろう。
しかし、やはりこの初級魔法などではタウロスにダメージを与える事など適わなかった。飛来したそれを魔物の片割れが手に持った得物を一閃する事で粉砕。金棒が凍り付いたが、特に意味があるようには見えなかった。
「ダメっぽいな……。このままじゃ、林を抜ける前に捕まるぞ」
ベティの焦ったような言葉に、私は頭を抱える。どうしろと言うんだこの状況。