第2話 スツルツのウサギ

06.ウサギの意地


 遠心力を駆使し、鎖鎌の鎌部分を振り回していたチェチーリアさんがそれを放り投げる。それは意思を持ったように真っ直ぐヘドロの魔物へ飛んで行き、鋭い刃がその体表に突き刺さ――さらなかった。
 私の大まかな予想通り、ただ放り投げただけの小さな刃物は呆気なくぶよぶよヘドロの体表に阻まれてはたき落とされる。あまりにも予想通り過ぎて逆に面食らってしまった。

「あ、あれっ!?」

 ――あれ、じゃないよ……。何でこの人驚いた顔してんだろ……。
 清々しい程当然の出来事なのだが、チェチーリアさんは動揺している。いやいやいや、そんな攻撃が通らないのはやる前から分かっていた事だろうに。

「えっ、ちょ、チェチーリアさん!? それは無茶というものではっ!?」

 何を思ったか、鎖を引いて鎌を手に持った彼女は、それを持って駆け出して行った。あの触ったら見るからに有害そうな魔物相手に素手で挑む気か。正気? え、正気なの?
 流石、王都周辺の都会はやる事がちげぇや、と妙な感心すら覚える。

 わーっ、と走って行ったチェチーリアさんは手に持った鎌を直接、魔物の身体に突き立てる。しかし彼女の細腕如きでは勿論、魔物に傷一つ付けられなかった。獣人と言えば非力な人間よりずっと力があると思っていたが、ベースが草食動物のウサギだからか全く火力が無い。
 何度も何度も斬り付けているうちに、魔物も纏わり付いて来るウサギが鬱陶しくなったのか、腕のような部分を勢いよく振るった。そこに意志はなく、敢えて例えるならば飛んでいるハエを払うような何気ない動作だ。

「うきゃっ!?」

 可愛らしい悲鳴と共にチェチーリアさんが弾き飛ばされる。盛大に尻餅を着いた彼女はしかし、そこは獣人らしいフットワークを活かしてすぐに立ち上がった。
 鎖鎌をしまい、代わりに背に負っていた棍のような物を手に取る。打撃武器に見えるのだが――え、それで応戦するつもり?

「チェ、チェチーリアさーん! それは無理! 戻って来た方が良いですよーっ! 一旦退きましょう、相性が超絶悪いですよそれ!」

 恐らくああいう手合いには魔法が効果的だ。見れば分かるが、彼女が魔法を使わない――否、使えないようである以上撤退を視野に入れた方が良いだろう。
 しかし、こちらを一瞥したチェチーリアさんは力強く首を横に振った。

「駄目よ、今、門の番をしているのはあたしだけなのよ! あたしがいない間に、コイツが街の中に入っちゃったらどうするの!? 明らかにLv.3はあるわよ、コイツ!!」
「え? いや、レベルは2くらいじゃないですかね」
「どっちでもいいのよ! アンタ、魔法くらい使えない訳!?」
「使えるんで、一旦戻って貰って良いですか。箱に入っているとは言え、ケーキを地面に直起きするのはちょっと」

 チェチーリアさんは地面に転んだ時に擦った頬を手の甲で拭いながら怪訝そうな顔をしている。
 当然、私は魔法を使えない。念話器すら使用出来ない魔法弱者である。
 しかし、彼女を見ている限り魔物に直接触れても目に見える害は無いようだ。であれば、手頃な道具を拾って来てあの魔物に突き立ててしまえば万事解決。

 自分では敵わないと悟ったのか、チェチーリアさんはもう一度ヘドロ魔物を見て、そしてこちらへ駆け出して来た。
 やって来た彼女にケーキの箱を渡す。

「これ、しっかり水平に持っていて下さい。あと、その棍。貸して貰っても良いですか?」
「良いけれど、何に使うの? 魔法が使えるのよね?」
「まあ、見ていて下さいよ」
「ちょっと! 怪我するような事、一般人にはさせられない――」
「大丈夫ですって」

 棍を受け取った瞬間、私は跳んだ。
 景色が移り変わり足の裏に名状しがたいぶよぶよとした感覚が伝わる。うっかり雨上がりの柔らかい土を踏んでしまったような感覚で大変気持ちが悪い。
 私の手がギリギリ魔物に触れない角度で突き刺さった棍は魔物を虫ピンのように串刺していた。もうこの武器は使えそうにないな、と心中でチェチーリアさんに謝罪する。

 魔物の背から飛び下りると同時、ヘドロのような魔物が横倒しに倒れた。どこが顔だか足だか分からない形状をしていたが急速に――風船が縮むようにどんどん小さくなっていく。
 やがて、それは人間程のサイズにまで縮んだかと思うと、ヘドロがドロドロに溶けて地面に染み込んでいく。

「……え」

 後に残ったのはうつ伏せに倒れたかなり大柄の男性だった。ワガママボディというか、とにかくふくよかな体脂肪を纏った男性だ。歳は30代後半くらいだろうか。ジッと見つめてみたが、ぴくりとも動かない。

「何、人……?」
「人じゃないわよ。もう、ね」

 事の惨状を見ていたチェチーリアさんが目を眇めて汚物でも見るかのように男を見下ろした。そして聞いてもいないのに事の概要を語り始める。

「半年くらい前からかしら。人が魔物化する現象が発見されたの。強いストレスや負の感情で魔物化するらしいけれど、感染症であるっていう仮説もあるわね。詳しい事はまだ分かっていないわ。ただ」

 長い足を折り畳むように男を見下ろし、手を伸ばす。どうやら脈を取ったらしい彼女は首を横に振った。

「ただ、こうなってしまうともう、殺す以外に人間に戻る方法は無いとも言うわね。魔物化した人間は魔物に分類されると正式に国で決められているから、アンタが気に病む事は無いわよ」
「もしかして、励ましてくれてます?」
「馬鹿! 台無しじゃない!!」

 どうやら気を遣ってくれたらしい。残念な事に、国の末端部に位置する村に住んでいるので人死になど日常茶飯事だ。この程度では落ち込んでいては、村で生活など出来ないだろう。