菓子折を装備し、いざ出陣。
なんて言ってみたものの、距離にすれば僅か数十歩である。どちらも出会い頭にばったり、などというありがちイベントを全てスルーしてしまったので初対面。ならばどちらから顔見せても一緒だろう、とそう言うルシフェルの言葉の元、六花は右隣の住人の部屋へ向かった。
後ろに憑いている――否、着いているルシフェルはもちろんいつもの《視えない奴には視えない》霊体スタイルである。それは一応は独り暮らし、という設定になっている六花にとっては当然の采配なのだが。
インターホンを押し込み、間の抜けた呼び出し音を聞く。
――が、誰も出て来ない。
「留守かな」
「時間にすれば午後6時――普通の社会人ならば帰って来ていないのは当然だとも言える時間帯だな」
そう言って、ルシフェルは嗤った。
あまりの邪悪な笑みに悪寒が走る。彼がこうやって悪い笑顔を浮かべる時は決まって何か企んでいる時なのだ。
「ちょ、何を考えて――」
「静かに。ククク・・・六花よ、これは所謂、居留守というものさ。中に何か居るのは確かだ。もう一度、インターホンを押してみろ」
「本当に?」
「上手く気配を殺してはいるが、この俺の目を欺こうなんて百――いや、千年は早いんじゃないかな」
――ルシフェルが居るから面倒で出て来たくないんじゃ・・・。
そう思ったが口には出さなかった。彼に着いて来て貰わなければ、マンションを歩き回る事もままならないのだから。
言われるままにインターホンをもう一度押す。再び間抜けな音が反響した。
ややあって、家主の声が響く。玄関へ姿を見せるつもりは毛頭ないようだ。
「何の用だ」
「え・・・いやその、隣に越して来た者ですけど・・・挨拶をしに――」
「要らん、帰れ」
「はぁ?」
素っ頓狂な声が漏れた。何だこの人、帰れって。
視線だけでルシフェルの方を顧みれば彼は必死に笑い出すのを堪えているようだった。まるで使えない堕天使である。
「菓子とか持って来たんですけど、ちょっと顔出してくれません?」
――要約。ちょっと面貸せやコラ。
しかし、数秒の間を置き、玄関の鍵が外される音が響く。さっきからこの人は言っていることとやっていることがまるで別々。あべこべ。
何の躊躇いも無く開かれたドア。その先にいたのはどことなく中性的な男性だった。管理人、神代戌亥も中性的だったが彼よりは幾分か男性的、とも言えるかもしれない。整った目鼻立ちはしかし、普段から明けの明星とも呼ばれるルシフェルを見慣れている身としては騒ぐ程でもないか。
「・・・チッ」
「舌打ち!?何なんですかあんた、いきなり――」
「おい、貴様」
不機嫌そうな顔を隠しもせず、出て来た男は六花の背後を指さして冷たく言い放った。
「後ろに何を憑けている。目障りだ」
「えっ・・・いや・・・え!?」
「視えていると言ってるのが分からんのか。私が後ろの異形に気付かないとでも?人間風情が、嘗めた真似を。どちらが無礼か、その頭で今一度考えよ」
――あ、ヤバイ。こいつアレだ、人外だ。
瞬時に悟り、後ろに『憑いている』ルシフェルを引きはがすはずもなく彼の背後に隠れる。それを鬱陶しそうに視ている隣人は深い溜息を吐き出した。
「おや、随分と言ってくれるじゃないか。まったく、獣風情が大天使たる俺に何を・・・傲慢、だな」
ふん、と鼻で嗤う傲慢な堕天使を前に眩暈すら覚える。どの口で言っているんだその台詞。あんた大天使じゃないだろ、もう。
――もういいや、何かこのまま放置すると喧嘩に発展しそうだからさっさと挨拶して次行こう、次。
決心し、菓子の袋を半ば強引に隣人へ手渡す。
「私、隣に越して来た橘六花です、以後よろしくお願いしますっ!」
「・・・
「そうですか、さようなら」
会話を強制終了させ、一旦部屋へ。
その際、未だ不機嫌と企みの入り交じった笑みを浮かべているルシフェルに寒気すら覚えたが気付かぬふり。