02.

 ルシフェル、そう呼ばれた男は無言で振り返った。手にはテレビのリモコンを持っており、心底面倒臭そうな顔をしてこちらを見ている。
 黒い長髪に整った顔立ち。何もかも引き摺り込んで内包するような深紅の瞳。成る程どうして以前は《最も美しい》とされていた天使である。堕天した今もそう形容されるのかは知らないが。
 そして彼の姿は家に居る人間の中で六花にしか視えていないらしい。現在、家族は誰もいないので平気でリモコンなど触っているが、この場に正常な人間がいればリモコンが勝手に宙に浮くというポルターガイストを見ることになるだろう。

「どうした?俺に用があるんじゃないのか?」
「えぇっとそれがですね・・・」

 戯けたように問うルシフェルに一瞬、言いよどむ。常に好き勝手している彼だったが、今回ばかりはそうも言っていられない状況だというか、選択の余地が無い話なのだ。
 そういう、《選べない》話を彼が嫌う事はすでに学習済みだ。
 爽やかさが逆に恐ろしい笑みを見、六花は口を開く。彼が恐いわけではないが、面倒だと罵られるのはあまり良い気分じゃない。

「実は引っ越す事になったんだけど」
「引っ越す?へぇ、それはご苦労なことだな。が、お前、この家は一軒家というやつで引っ越しはしないんじゃなかったのか?」
「引っ越すのは私一人だけなんだなこれが」

 え、とルシフェルが絶句する。
 彼はとても賢いので、すでに六花が言わんとする事を理解したのだろう。すぐにいつもの飄々とした表情に戻ったルシフェルが嗤う。

「独り暮らしをする、って事か?」
「そう。知っての通り、ここからうちの高校は遠すぎるからね・・・毎朝1時間もバスと電車に揺られるなんて耐えられないし、お母さんがもう朝早くに弁当作るの嫌だって言うから」

 行き帰り、合計2時間。その分だけ移動費も馬鹿にならない。そうするぐらいだったら安いアパートかマンションでも借りろ、というのが親の意見だった。
 もちろん反対もしたし、出来れば独り暮らしなどしたくなかったが同時に学校へ1時間も掛けて行くのも割に合わないと思っていた。心中の葛藤により、結局は独り暮らしを始める方へ折れたのだが――自分の守護霊じみた役割を担っているルシフェルは、この決定をどう思うのか。
 先に言えば、彼の意見によって選択が左右される事は無い。
 何故なら、彼に助けて貰っている部分もあるが、ルシフェルという堕天使が今、この場にいるのは他ならぬ彼自身の意志だからだ。そもそもうちは仏教徒なので、天使系統とはまったく系統が違う事になる。

「本気なのか?」
「まあね。この家から離れるのが嫌なら無理にとは――」
「ひゃっほぉぉぉぉいっ!」
「・・・・えっ?」

 大悪魔らしからぬ嬉声を上げたルシフェルはリモコンを放り出し、ソファの上で飛び跳ねた。重さが無い為、ソファが大破することはなかったが、それでも実に心臓に悪い光景である。
 困惑してはしゃぐ堕天使を見る。

「お前の母親は神かッ!?いいじゃないか独り暮らし、最高じゃないか独り暮らし!俺はお前にシカトされる事も無くなるし、お前もちらちら視界に入る俺を無視しなくていいんだぞ!?」
「果てしなくアンタが悪いわ!どうして人前で大人しく出来ないの!?」

 両親の前では存在が無いものとされているルシフェルをシカト、及び無視するのは当然。彼の奇行にいちいちツッコみを入れていたら精神科へ連れて行かれてしまう。
 しかし、いまいち乗り気じゃない六花は一つ溜息を吐いた。

「学校が近くなるのはいいけど・・・引っ越し面倒臭いなぁ。そもそも、住む家すらまだ見つけてないのに」
「良い不動産なら紹介してやってもいいぞ」
「魔界には住みたくないんで、いいです」