1話:対神の治める土地

08.汚染地帯(2)


 などとロスタイムしている内に、焦れた汚泥の一体が烏羽へと飛び掛かった。この間の汚泥は人型をしていたが、今回は獣のようなシルエット。当然、人間が走るそれよりも速く、そして力強い。

「おっと」

 態とらしく驚いたような声を漏らした烏羽は目を細めると、飛込んで来たそれの首根っこを捕まえ、走って来た方向へと投げ返した。
 しれっとした行動だったが、身体能力の高さに瞠目する。てっきり、ゲームで言う所の後衛向きキャラだと思っていた。だが、そこそこ前に立たせても問題は無いらしい。

 ただ、この汚泥は触れた物を腐敗させる。形容し難い臭いが僅かに漂う。彼の手は焼け爛れたように細く白い湯気を吐き出していた。恐ろしい光景に言葉を失う。何も、ダメージ描写までリアルに近付けなくとも良いのではないだろうか。
 戦慄していると、そんな花実を馬鹿にするかのようにクツクツと彼が喉を鳴らした。

「ええ、ご心配なさらず。輪力さえあれば――ほら、この通り。修復など一瞬ですよ、ええ。ただ、召喚士殿は真似されない方が良いでしょう。貴方が同じ事をすれば、肘から先は無くなっていたかもしれませんねえ」
「……」
「しかし、ふむ、この程度の汚泥に触れただけでこれとは。ええ、なかなかに私も召喚の弊害を受けているという事か……」

 ――もしかして、神使強化メニューの伏線を張っている?
 最後の呟きは、恐らく彼の素だった。

 そんな烏羽はと言うと、負傷した左手から淡い緑の光が溢れたかと思うと爛れたような傷跡は消えて無くなっていた。この世界で言う所の術と言うのは、魔法だとか何だとかと同じ扱いなのだろうか?
 チュートリアルの戦闘では水に由来する術も使用していたようなので、広範囲カバー型なのか? いやだが、奴が誰かのカバーに入る所など想像も出来ない。好き勝手して、役割とか何とかに縛られる事など無さそうである。

 ――と、意識を飛ばしている間に事態が進展する。
 パチン、と音を鳴らして手を合わせた烏羽の周囲に水の気配が満ちた。不純物など一切混ざっていなさそうな、飲んだら美味しそうな透き通った清廉な水。そういえば、彼が何かをする時はいつもこれだ。

「――これしか使えないのかな……」
「はい? 今何と仰いました? ええ、まさか見ているだけの分際で私に嫌味だとかを……」
「いや、別に……属性的な物があるのなら、水属性なのかなって」
「属性……ええ、随分と俗物且つ型に嵌った物言いをされますね。水気の術は馴染むので、気を抜けばこればかり使っていましたが――ええ、他でもない貴方様がつまらないなどと仰るのであれば、次は気を付けましょう! ええ!」

 最後の方は嘘だ。気持ちと出た言葉が合致していないのだろう。実際は「小娘が生言いやがって」などと思っている可能性あり。

 出現した大量の水が獣の形をした汚泥を飲み込む。3体いた内の2体は濁流に呑み込まれ、全身を溶かし崩すように消えて行った。もう一体は木の上に上り、直撃を免れる。流石の獣、身体能力が高い――
 瞬間、獣型の汚泥が木の枝から直接、烏羽に襲い掛かった。アニメや映画で見る事もある光景だが、実際にはあんな恐ろしい速度と恐怖を感じるものなのか。狙われた訳でもないのに、花実は息を呑んだ。

 しかし、当の神使は慌てず騒がず。小さく鼻を鳴らすと、余裕の反射速度で左手を真横に凪いだ。それはただの手刀ではない。彼が腕を振るうと同時、漂っていた水がその動きに合わせて舞う。
 例えるならばウォータージェット。水を撒き散らしながら汚泥を両断したそれは、背後の罪なき木々をも同時に切り倒した。

「――ふむ、ざっとこのような物です。ええ、特に面白くもありませんでしたね。所詮は汚泥、という訳です」
「あ、お、おつかれ」
「おやおや、私を労るという発想があったのですね。ええ。働かせるだけ働かせて、無視放置かと思いました」

 手に着いた汚れを払い、髪を整えている烏羽を尻目に考える。
 最初のクエストとは言え、こんなにあっさり勝ててしまって良かったのだろうか。あまりにも苦労せず汚泥戦をクリアしてしまった。
 というかそもそも、薄桜の言葉を無視して村の外に出るルートは、果たして正規ルートと言えるのか? あの人の良さそうな彼女の感じからして、こうも敵対するのがよく分からない。
 想定されたストーリーから大きく外れているのではないか、とあり得ない予感ばかりが渦を巻く。

「召喚士殿。また考え事ですか? ええ、私のようなお人形には貴方様の考えなど、まるで分かりませんが……噂の正体、まだ確かめ終わっていませんよ」
「……うん」
「分かっておられないようですねぇ、はい。薄桜の密談相手……我々を攻撃してこないとも限りませんよ。あまりボンヤリされると、あっと言う間に人生を終える事になってしまいますとも!」

 珍しくマトモな事を言う神使の顔を見上げる。胡散臭い笑みを、それはもう態とらしく手向けられた。これは同寮に疑われても仕方が無い。彼が嬉々として「世界を救います!」などと言い出そうものならば、発熱を疑う事だろう。
 見なかった事にして、どちらへ進むべきかを思案する。とは言ってもあまり村から離れ過ぎるのは危険だ。

「まさか、行き先に悩んでいます? ならば、沈没地帯にまで歩を進めてみては如何ですか。ええ。一言、汚泥の底に町や村が沈んでいると伝えても、なかなか想像できないでしょう?」
「ならそうしようかな」
「良い景色だといいですねぇ、召喚士殿」

 からかうような声音。確実に遊ばれてはいるが、確かに汚泥の底に沈むという概念を確かめてみたくもある。烏羽の胡散臭さは見ない事にして、早速林の奥へ奥へと歩を進めた。