最初に仕掛けたのはアークヴェルトだった。相手への説得、或いは戦闘の回避が出来ないと悟った以上、無意味な問答をするつもりは無いらしい。それに、クレアは愛用の得物を置いて来ているが、彼は大振りのナイフをその両手に装備しているのだ。
――殺られる前に、殺る。
革命軍だろうが音楽団だろうが、暗殺集団だろうが持ち合わせる最低限の自己防衛能力だ。王国の庇護下に無いクレア達が相応の倫理を以て行動するという思考を持ち合わせるはずがない。
当然の如く、ヴァイオリンの旋律が響く。
どこまでも重く、美しく、滑らかな旋律が音色が反響する。
「――ぐっ!?」
「ヴェルト!」
バタフライナイフを取り出し、構えたクレアは叫んだ。相棒の様子がおかしい事に気付いたのだ。
動きが――遅い、どうしようもなく。
「クレア!足と腕だ!細い――糸のようなモノが絡みついている」
「は?よく見えないんだけど!」
言われた通り、ヴェルトに走り寄ったクレアは虚空に斬れ味が悪いナイフの切っ先を振るう。確かに、何かを斬る手応えを感じ、束縛から解き放たれたヴェルトの身体が傾いだ。
「何これ・・・弦?」
呟けば手を止め、眉根を寄せる《ジェスター》の姿が視界に入った。見ているのはクレアであり、ヴェルトではない。
目が合い、人間味の無い視線を浴びたクレアは硬直する。それはまるで、濃い色をしたただのビー玉みたいだ。ただそこにあるだけの、作り物の瞳。悪寒が止まらない。
「お前は――何か囓っているな?動きを見ると剣技と言ったところか。成る程。《国軍》崩れか何かか」
「・・・別に、そんなこと、どうでもいいでしょ?」
「そうだな。剣を持たない騎士など、包丁を持たない料理人と同じぐらい、存在価値を持たないな」
「とんだ偏見だよ!謝れ!」
思わずツッコんだ刹那、再び道化師は行動を開始する。
大きく弓を動かし、奏でる。さっきまで会話していた相手にまるで何の躊躇いもなく攻撃を仕掛けるその様は、実に畏怖に値するだろう。
すでに体勢を立て直していたヴェルトが露骨に舌打ちし、ジグザグとまるで統一性の無い動きを始める。何なんだろう、と一瞬首を傾げたがすぐに合点がいった。腕や足が、だんだん重くなる。それが痛みに変わる頃には、クレアは全てを理解し、虚空に向かって刃物を振るう。
《ジェスター》の《ローレライ》としての能力はこの黒い弦のようなそれだ。相手の自由を奪い、或いはその四肢を切断する。動きも命も止める、まさに両刀のような能力だ。
そして恐るべきはその奏でる旋律。
最早、それそのものに力がある。聞いた者を引き込む、魅力。それこそまさに、芸術だ。
「どうする、ヴェルト!近づく事すら出来ないんだけど!」
近づけば近づく程、自ずと針のむしろへ突っ込むようにして弦の本数が増えて行く。今はまだ、辛うじて避けられるレベルのそれだが、恐らく半径1メートル圏内辺りに入れば、避ける事は愚か、挽肉になってしまう事は間違い無かった。
もちろん――《ローレライ》が多い《音楽団》とは違い、《賢人の宴》には能力を持った人間が少ない。それは序列2位だろうが7位だろうが例に漏れず。
近づかなければ戦闘など始まりもしない二人は、近づく事すら出来ない敵を前に、ただ無力だった。
――結論。二人がかりだろうと歯が立たず、勝てる気がしない。
「クレア!お前、もう逃げろ」
「はぁ?止めてよそういうの嫌いだから!絶対に嫌だからね!」
瞬間、黒い弦がクレアの頬を浅く斬った。