意志を持ったように動き回っていた黒弦の速度が落ちた。そしてそれを見逃す程《黒鏡》の名を背負う暗殺者は甘くなかった。
素早く身を翻したセドリックはディラスなどには目もくれず、真っ直ぐにその眼光で射貫き殺さんばかりに真白を見た。それはすなわち、今からお前を殺すぞという無言の圧力。
ぎょっとして動きを止めた――否、動いていようが結果は変わらないのだろうが、それでもその視線に気圧されて動きを止めた彼女に向かって暗殺者は一足飛びで間合いを詰める。詰められた。
「ッ・・・!」
「恐れないんだな、やはり」
そんな変に嫌にやけに落ち着いた声色で呟いた暗殺者は手にしたナイフを振り上げる。無慈悲に。
恐ろしくないか、と彼が問うたのであれば恐ろしいと答えただろうが何を履き違えたのか目の前の彼は真白が「まるで恐れていない」ように見えるらしい。そんな狂戦士でもあるまいし。それどころか日本という安全な国で健全に育った年若い歌手としてはこの状況がすでに冷や汗ものである。
「そう、また――」
また、死ぬのか。凶器は奇しくも同じナイフである。形状に違いはあれど得物としては同じ部類なのだから同じ事だった。
長生きしたかった。
第二の人生を楽しんでみたかった。
真っ当な人生を送りたかった。
――まさか。露にも思っていないだろうに、そんなこと。
心中で自嘲する。では何がしたくて何をしていなくて何をしたくなかったのか、そう問われても明確な答えが無い。
だとしたら一回目も二回目も、結局は同じ事だ。
凶悪に輝くナイフのブレード。僅か数瞬の間に脳内整理を終えた真白は嫌な汗を額に滲ませたままにその凶器を見据えた。刃先は違うこと無く人体の急所を狙っている。
聞こえる――きこえる。ピアノの音。自分を嘲り笑う彼女が奏でる旋律。
――がしゃん。
「あ」
音楽というには雑で無粋で気味の悪い音だった。というか、それは何かが破壊される音だった。場違いなその間抜けな音によって我に返る。
はっ、として正面を見れば不自然な体勢で暗殺者は行動の全てを停止していた。やけに力のこもった瞳だけが向けられており、それを受けて真白は首を傾げる。
――聞こえない。音が、聞こえない。
それはつまり、ピアノの旋律も同時に止まってしまったということ。
セドリックが完全に動かない事を確認して、怖々と一人取り残されているであろうディラスを見やった。
恐ろしい程の無表情で暗殺者の背を見つめている音楽家。その足下には愛用のヴァイオリンが無惨な姿で転がっている。弓も同様に。そうしてそれを拾おうとせず、それどころか微動だにせず立ち尽くしているディラスに、真白は確かな悪寒を覚えた。
――それは即ち、光景の意味不明さである。