目を醒ました時、最初に感じたのは一定のリズムだった。ごとんごとん、という音。変な体勢だったせいか身体の節々が痛い。真白はうっすらと目を開けた。
「・・・?」
「馬車の中だ。どいう事かという質問ならば、簡潔だ。お前は今、《ジェスター》に対する人質として誘拐されている最中だ」
「へぇ、そう」
それを聞いた真白は大した感慨を抱かなかった。この男が自分の後頭部を殴った挙げ句、攫ったのはちゃんと覚えているがそれでも危機感を抱けない。ナイフで一突きされた時もそうだった。危機感を危機感として認識出来ないのだ。
冷静に自己分析していれば隣に座って正面だけを見ていた男の瞳だけが動いて真白を視界に捉える。
「怯えないのか?」
「怯えてどうするというの?恐い助けてって泣き叫べば誰かが助けてくれるの?そんなわけないでしょう。なら無駄な事はしないのよ。だってそれは無駄なのだから」
「成る程。シビアな生き方をしているようだ」
同じく真白も正面を向いたまま、眼球だけを動かして男を視界に入れる。すでに居住まいを正していた彼女は憂鬱そうに溜息を一つ吐いたのみだった。面倒以外の感情を覚えるのもまた面倒で億劫だ。
ディラスの妄言じみた言葉を思い出すがそう簡単に事が運ぶとも、彼が有言実行の人間であるという事も実に薄い可能性である。人質が役に立たない場合どうなるのか、それを想像すると余計に気が滅入ってきた。
「――着いたぞ。下りる準備をしろ」
無言で立ち上がり、先に馬車から降りた男の後に続く。今更抵抗しようなどという考えは毛頭なかった。だってそれは無駄な事なのだから。
相変わらず顔の大半を覆い隠した彼の表情は分からなかったが、恐らくは真白のような無表情なのだろう。
久しぶりに見る外の景色は街の中にいた頃と随分変わっていた。
馬車が走り去る音を頭の片隅で聞きながらそれを見上げる。それは、大きな別荘のような建物だった。いや、別荘という表現は正しくない。西洋館だとか屋敷だとか、童話に出て来そうな建築物。真白はけしてロマンチストではないのだが、そんな彼女でさえもそう思わざるを得ない。それはそれは見事な建物。
「行くぞ、早く歩け」
「えぇ」
「・・・お前には抵抗するという気も無いのか?」
ここに来てようやく男が何らかの感情を孕んだ声を出した。それは怪訝そうであり怪しんでいるようであり、それ以上にまるで何かを忌むような口調だった。
伏せていた目を上げ、緩やかにそんな男を見やる。
「――言ったでしょう。無いのよ、そんなつもりは。死にたいわけではないけれど、見て分かる通り私は死んでいないから生きているだけの、そんな存在なのよ」
その言葉に最早男は応えなかった。代わり、部屋の前で立ち止まる。気軽にがちゃりとそのドアを開けた男が中へ真白を押し込んだ。ふらり、と覚束無い足取りで敷居を跨いぎ、首だけを動かして振り返る。
「俺はセドリック。見て分かる通り――暗殺組織《黒鏡》の一員だ。こんな酔狂に付き合っているのは依頼だからだと知っておけ、小娘」
そう言って男――セドリックは胸元で黒く輝く鏡・・・黒という色によって反射しない、何も写さないペンダントを見せた。