11.

 ディラスが出て行ってそう時間が経っていない頃。
 下が騒がしく、寝ていられなくなった真白は目を醒ました。下では人間が倒れて机がひっくり返ったりと大惨事であったがもちろん彼女はそんな出来事を感知していない。精々、何だか下が煩いな、程度の認識である。
 ――もともとそんなに深く眠りについていたわけでもないのだが。
 ぼんやりとした頭で室内を見回す。二人で使うにはやや狭いその部屋はどことなく広い気がする。何故だろうと考えて音楽家がいない事に気付いた。

「どこに行ったの・・・」

 1階へ下りようかどうか迷う。ディラスが下にいることは何となく分かるのだが、果たして一人で自分が行動しても平気がどうかは正直な所分からなかった。
 ――動かない方がいいか。
 やがて出した結論はそれだった。動くのが面倒だったというのもあるが、今は差ほど煩くないしもう一眠りしようと思ったのである。
 くぁ、と欠伸して布団を掛け直す。夕食を取っていないがお腹はすいていない。それよりも睡眠時間が欲しいのが本音だ。下でどんな惨事が起こっていようと自分には関係の無い話だろうしどうする事も出来ない。
 頭の片隅で考えながら瞼を閉ざす。
 ――瞬間、一つしか無い窓の硝子が粉々に砕け散って凄まじい音を立てた。
 ぎょっとして真白は布団を跳ね飛ばし、起き上がる。

「何・・・?」

 内側に向かって散っている硝子の破片。それはつまり、外から割られたということ。しかし、どうやって。当惑していれば窓枠をがっ、と人間の手が掴んだ。上げかけた悲鳴を呑み込む。
 すると反対側の腕が伸びて来て適当に窓枠を掴む。その後は早かった。助走を付けたかと思うとひょい、という気軽な動作で中へ男が入って来たのである。
 ――ここは2階なのだが。
 何と言えばいいのか、変に冷静な頭で考える。一度半狂乱の男に刺されて殺されているのだ。こんな状況に驚いたりなどしない。

「――貴方、誰?」
「!?」

 入って来た男は唐突に声を掛けられた事により、驚いたように身を竦ませた。それに遠慮などの感情が加味されているかといえば否であるのだが、それでも多少なりとも驚いたように顔をしかめた。
 二十代半ばぐらいの男。顔のほとんどを隠しているが目元から分かる。彼はあまり老けていない。まとう雰囲気は冷たく、非常に寡黙な印象を受ける。男がそうであるように真白も黙って男を見返した。これ以上掛ける言葉など知らなかったのだ。
 ややあって返って来たのは答えではなく、疑問だった。

「お前は《ジェスター》の何だ?」
「・・・?何?」

 《ジェスター》――宮廷道化師の意を持つ人間の存在など、真白が知るはずが無いのだが首を傾げた彼女を見て男もまた若干なりとも首を傾げた。
 留守番少女と異様な風体の男が揃って首を傾げている光景というのもかなりシュールであったがその状況は男が一歩少女に詰め寄った事によりサスペンスドラマのワンシーンへと変貌する。

「部屋は間違っていない。お前は嘘を吐いているのか?それとも、俺をからかっているのか?本当に分からない阿呆なのか?」
「知らないものは知らないのよ、鬱陶しいわね」

 無表情のままに言い放った真白はいい加減うんざりしていた。ただでさえ歌えない状況下であるというのにこれ以上面倒な事を引き起こされるなど以ての外。
 ふむ、とこれまた無表情の男は一拍間を置いて呟いた。

「何だか分からないが――何か関係でもあるんだろう、攫っておくか」

 刹那、真白の視界から男が消えた。あれ、と思って男の姿を追おうとした瞬間に思い切り後頭部を殴られる。視界に火花が散る、という表現を現実で体験する事になりあぁ、本当にこういう表現なんだなと訳の分からない事を考えていた真白はどさり、と床に倒れた。