ピアノの旋律が1階ホールに響く。優雅なその光景を余所に、床には人が倒れている。それも、床を覆い尽くす程に。倒れた全ての人間は息をしていないし何だか顔色がとてつもなく悪かった。
――息がしづらい。喉に何かが引っ掛かっているように、深く息を吸い込めない。
ディラスは顔をしかめた。それが何であるかなど愚問だ。
「――逆さ音符」
ぴたり、と音が止まった。代わり、女の口が開く。艶やかに紡ぎ出された言葉は決して無視出来るものではない。聞かなければならないような、そんな妙な強制力を持っていた。
しかしディラスは応じない。女は喋り続ける。
「《
あぁそうだ、と女は一方的に会話として成り立たない独白じみた言葉を続ける。
「《ジェスター》ね。お高くとまっちゃって」
「――そういうつもりはない。周りが勝手にそう呼び始めただけだ。まあ、二つ名については団長が面白がって付けたようだが、それも僕は関係無いな」
逆さ音符の銀ブローチ。それは即ち《道化師の音楽団》団員であることを示す。何の団体か、と問われれば音楽団と迷い無く答えるが他者から見ればそれは武装集団と同義である。否定はしないし、理解して貰おうとも思わないが。
非戦闘――中立組織たる《道化師の音楽団》。ちょっかいを出されない限り無闇矢鱈と戦闘行為に及んだりはしないが、この場合は別である。
――命を狙われているのだから。
ふん、とディラスは鼻を鳴らす。音楽家の最高峰に君臨するディラスを前にピアノ一つで掛かろうという女に多少なりとも感心し、同時に哀れだとすら思った。傲慢ではなく。
「そういうお前は《賢人の宴》だな。革命軍か」
「えぇ」
女の白く細い腕に嵌っている赤いバングル。《賢人の宴》メンバーたる証し。どこまでも赤いそれは実に好戦的な色だと勝手に納得して頷く。
彼等彼女等が一体何を改革したいのかディラスにはまったく分からないというか知ろうとも思わないのだが、こうやって絡んで来られては迷惑以外の何者でもない。
「何の用だ。見ての通り僕はここに泊まっているわけだが、それを知った上で奇襲を仕掛けたのか或いは偶然の一致か。場合如何によっては相応の対処をしよう」
言いながら女の《ローレライ》としての能力が聴き入った相手を窒息させるとかそんなんだろうと当たりをつける。相手がそうだと分かっていれば対処法はあるものだ。
女が薄く嗤う。
「教えるわけないでしょう」
「だろうな。どうでもいい話だった。お前が《賢人の宴》であるのならば多少なりとも僕達に恨み辛みがあって何ら可笑しい事は無い」
「そう。単純でいいのね、貴方は。敵は敵として処理することが出来るんだもの。私だったら本当にこの人は敵なのか、ぐら多少なりとも考えるわよ」
ふん、とそれをディラスは鼻で嗤った。
まるで的外れな見解だ、と言わんばかりに。
「それが例え味方であったとしても、僕の創作活動を邪魔するのであればそれらは等しく僕の敵だ。考えるまでもない」
「――あぁ、音楽家なのね。貴方」
それが戦闘開始の合図。
すでにケースからヴァイオリンを出し、弓を持っていたディラスは女から視線を外す。女もまたピアノの鍵盤に手を掛けていた。
静謐に神聖に、《ローレライ》たる彼等の音楽がホールに響く。